ベリキューのコントラスト効果

ポケモーのアーティストQ&A。
2008.7.10
メンバー同士で、『これだけは絶対に負けない!』ってのは何ですか?


で、いつもはなっきぃのしか読まない。
なっきぃの答え「℃-uteへの愛★」


で、ちょっと気になって他のメンバーも見てみる。
梅田「★℃-uteへの愛★」
矢島「℃-uteを大スキな気持ち★」
鈴木「牛乳が好きな気持ち★笑 歌うことが大好きな気持ち!!」
岡井「着ぐるみが似合うのは私だけ♪」
萩原「℃-uteのことを愛してるのは絶対だれも負けません。」
有原「私の〝これだけは負けない!〟は・・・★ やっぱり☆℃-uteへの★愛★です!!」


そろいもそろって℃-ute愛だ(若干の致し方ない例外を含む)。
これについて思うことは、たまたまみんなの意見が合致した、というよりも、同じ場所で答えを考えていて、和気藹々とじゃれあいながら、「やっぱ℃-uteへの愛だよ」「私も!」みたいな様子があまりにも容易に目に浮かぶということだ。それがほんとに愛しい。
じゃあこれがベリになるとどうなるのか。
清水⇒変顔、嗣永⇒前髪カット、徳永⇒バドミントン、須藤⇒腕相撲、夏焼⇒寝てられる時間、熊井⇒背が高いこと・コンサートで汗をかくこと、菅谷⇒絵。
これでいいんじゃないかと思う。ここで「Berryz工房への愛です!」っていうのは、なんか違う気がする。もちろん、これはグループへの愛があるかどうか、とは何の関係もない。ただそう答えることがそのグループ的かどうか、という問題である。僕はBerryz工房をよく知らないけれど、ただ、できるだけ客観的に見るとして、Berryz工房のほうがグループの歴史が長い分もあり、メンバー個々の特徴、キャラクターは立っているように思われる。
Berryz工房が学校的、℃-uteが家族的、というイメージを僕は持っている。楽曲のイメージがそうさせる部分もある。僕の勝手なイメージでは、Berryz工房は出自の異なる女の子が、同じ学校に入ってきた、という感じ。℃-uteは、家族としての集団が、それぞれ自分の道を模索していくイメージ(まあ同性愛という見方もあるけど)。
だから今回の回答でも、Berryz工房の答えは全て違って、それはBerryz工房がそのグループの初めとしては、キッズの中から決定的に明確な理由はなく選出されたものであるということ、つまりその集団の根拠・権威が、それぞれのメンバーの個性の後からついてくるということとも関連しているように僕は読み取ってしまう。「個⇒集団」、「差異⇒同一性」のベクトル。逆に℃-uteは、Berryz工房に選出されなかったという点で、まずは「選出されなかったメンバー」という集団性からその存在が始まっている(かんにゃは少し遅れるけれども)。そこから時間が経過するにつれ、各メンバーがどういう人間であるか、という「個」が後からついてきたのだ。だからまず℃-uteのメンバーが、集団への愛を叫ぶのにはそれなりの理由がある、という風に読めるのだ。「集団⇒個」、「同一性⇒差異」のベクトル。
もちろん重要なことは、これでグループの優劣をどうこう論じることではない。僕は℃-uteが好きなのだけれども、こうしてBerryz工房と対比して見たときに、お互いがお互いを相対化しあうことの効果を感じる。むしろ僕はベリキュー合紺のおかげでBerryz工房のことも好きになってきたのだ。お互いが切磋琢磨する関係であることによって、成長しあってほしい、と随分素直に僕は思う。今度ベリキューがあいまみえるとき、大きな花火が上がることだろうと思う。その花火を、勝手に何かの象徴だと思ってもいいのだ。