ヲタ芸再考:補足その2

前回、前々回のエントリの前田有紀問題に関して、まっとうな批判をもらって、その件に関していろいろ考えた、ヲタの特質について。
ヲタってのは、情報化社会の申し子なのだ。真偽の定かでない情報が溢れに溢れる社会で生まれたのがオタクだ。だから、まず、だまされたくない、というのがある。ヲタの外部から見ると、ヲタこそ最も俗物的なもの(アイドル)にだまされているように思うかもしれないが、それは違う。基本的なヲタのスタンスは、「僕はくだらないものだと自覚して(あるいは自らの愚かさに対して自覚的に)、あえてアイドルを応援している」「本気で応援している振りをしている」というものだ。こうした相対化の濃度はヲタにより異なるにせよ、なんらかの形でアイドル現象に対して距離を取る志向性を同時に持ち合わせる、というのがヲタである。
よって、「僕はだまされているわけではない、だまされているとしたら他のだれかだ」というのが、ヲタのほうの言い分としてある。「だまされない」ためには、自分の行動が「本心」によるものでなければいいのだ。このように、ヲタはベタになりたがらない。自分の行動はメタ的なものだ、とする。このことによって、ヲタは常にだまされていない状況を作り出せる。しかしこれと引き換えに、ヲタは「責任」を放棄してしまう。自分の行動の根拠が自らの意志と乖離した他者の欲望であるとすることによって、責任を引き受けずに行動するということにもなりがちである。
さて前田有紀の曲におけるヲタ芸の問題に戻ろう。ここにおいて、ヲタの反応は主に3つ考えられる。①静かに見守って応援、②ヲタ芸で大盛り上げ、③トイレ行くなりして無視。
ヲタのヲタ的な性質において、ある一定数のヲタが②を選択したのはいかにもヲタらしいと思う。①のように静かに応援してあげる、というのは、正直ベタ過ぎて照れくさいという側面もあったろう。そしてまた③を選択するのもまたベタなのだ。
で、やっぱり②の行動は、「だまされたくない」がゆえに行動と意志を乖離させる、ヲタの自己愛以外のなにものでもないのだ。その振る舞いが、現場の僕には何かとても似つかわしいようにも見えた、が、今となってはよく分からない。