鳥居の中の聖域

日テレのバラエティ番組『おネエ★MANS』に出ている鳥居みゆきを見た。ひどいことになった。
以下の秀逸なエントリは是非読むべきだと思う。読めば、何が問題なのかは分かる。
http://d.hatena.ne.jp/onodan/20080423

問題点をまとめるならば、芸人鳥居みゆきの発言が、すべて「素直な自分を出せない屈折した性格の女」としての発言だという解釈がなされるような演出がされ、最後「素直になった」鳥居を見て「めでたしめでたし」という風に番組が構成されているということ。
要は、ここで見事に芸人殺し、というよりは「鳥居殺し」がなされたのだと思う。僕は問題点を理屈で認識する前に何か怒りが湧いてきたのだが、それはアイドル鳥居みゆきに対しての愛だったのかもしれない。
鳥居論ははてな界隈でもかまびすしいので今さら付け加えるでもない。僕もつい一月前にこう書いたばかりだ。
鳥居みゆきは、極めて繊細に空気を読んだ上で、空気を読んでいない者を自己演出するギリギリの綱渡りをしているように思える(それを視聴者に普通意識させないくらい)。』
僕は上記の番組が、鳥居の綱渡りの努力を全く無効化してしまうという点で、芸人に対する最低限の敬意すらないという失望感がある。もちろんonodan氏も言うように、いろんなコンテクストというものがあって、特にアイドルやら芸人は、様々なコンテクストから消費されることを前提として商売が成立するかのような職業である。ただ、そのコンテクストの際限というものが全くない状況がいいようには思われない。例えば先日書いたばかりだが、リストカットを告白した加護亜依を、(nanari氏の言うように)「堕ちたアイドルの苦しみ」というような物語として消費すべきではないと思う。
なんだか、だまされまいとして、他者に対してはひたすらに丸裸にして「ガチ」の世界にねじこんでいく、あるいは無害化の処理を加えた上で(骨抜きにした上で)同質的な空間内に引っ張り込むという暴力がまかり通っている気がするんだよなあ。
バースデーケーキを用意され、「素直になれない女」というレッテルを貼られた鳥居は、もはや芸人鳥居として振る舞う道を完全に閉ざされて困惑しているように見える。狂気と演技の狭間を絶妙なバランス感覚で綱渡りすることこそが芸人鳥居みゆきの生命線だと僕は評価しているが、そこから何のデリカシーもなく突き落とすことにあきれ果てる。綱渡りをしている人間に、「素直になりなよ」という否定しようもないナイフを突きつけて綱から落として、瀕死の芸人をつかまえておめでとう、みたいな。あーもう何重にも勘違いした自己啓発セミナーみたいだ。
僕らにディズニーランドのミッキーマウスを愛する気持ちがあるなら、中の人を引きずり出してリンチすることはないだろう。結局そういうところのデリカシーの問題ではないのか。どこにラインがあるのか、それはある程度やはり恣意的と言わざるを得ない。例えば僕の感覚では、レーザーラモンHGに、「おまえほんとはゲイじゃないだろう」というのはOKでも、「ハッスルの戦いなんて演技だろう?」というのは無しだ。僕にとって加護のリストカットの話は無しだ。鳥居みゆきの「素」とやらを必死で引きずり出そうとするのは無しだ。曖昧な言い方にはなるが、それぞれの存在の生命線を侵してはならないと思う。
たまねぎはどこかでむくのをやめないと味わえないのだ。全部むいたら真実のたまねぎが現れるわけではない。素っ裸にしたら「本当」の鳥居みゆきが出てくると思うなよ。


ただ。
芸術作品を台無しにするのは一瞬だ。だが、一瞬で台無しにすることそのものも芸術と感じられたりもする。僕は鳥居みゆきが好きだから、一瞬で台無しにされてしまうのがいやだ。鳥居を訳のわからない者だと思うものにとっては、丸裸にして台無しにしたほうが楽しいのかもしれない。ここは難しいところだ。僕も他の何かだったら、一瞬で台無しにする解放感の方を選ぶかもしれないのだろうか。