夢と現実と。

夢を見る。
時々小説で、あまりにも思わせぶりな夢が描かれて興ざめすることがあるが、そんな感じだ。
僕の部屋にあるベッドは、下のスペースを利用できるように高床式になっているので、ハシゴがついている。そのハシゴが、「マスコミの連中」によって壊される、という夢を見た。夢の勝手な設定により、どうやらそのハシゴにのぼると℃-uteを見ることができる、というようなハシゴらしいのだ。
最近の加護に関するモヤモヤやら、マスコミへの不信感が如実に出たな。


さて、最近どうやったら現場に行けるかばかり考えている。
行けるかどうか分からないのに、6/14の℃-uteイベを申し込んだ。さらに大阪のイベも決まったらしい。昨年僕は、年中超多忙な仕事の中でどうやったら行きたいイベのところに仕事を入れずに済むか真剣に考えて仕事をしていた。
僕らヲタは「行為」で評価される仕事の世界から、「存在」を絶対肯定してくれるヲタの現場へ向かう。とりあえず僕らは、現場に行きさえすればアイドルに認めてもらえる。(もちろんもっと固有性を認めてもらうために、レスを求めにいく場合もある。レスがもらえるかもらえないかは行為への評価ではあるが、それよりも根本的なところで僕らヲタは現場でアイドルからの肯定を受けている、と僕らは信じている。)
僕は責任という概念と不可分に結びついた自分の名前を重たく感じながら仕事をする。だからその名前から離れて、別の名においてアイドルの現場に行く。
一方例えばガッタスは、基本的には「存在」を絶対肯定してくれるアイドルの現場と比して、「行為」を評価されるフットサルの現場を「うれしい」と言う。
アイドルはアイドルとしてある限り、それそのものを存在として肯定される。これは一面としては幸福でもあるし、また不幸でもある。要は、絶対肯定されている対象が本当に自分なのか、という疑念から逃れられないということが問題になる。確固たる理由の下に自分を肯定してもらいたい、と考えたら、ガッタスのように評価基準のはっきりしているスポーツの世界に参与するか、松浦亜弥のように歌の才能で勝負するか、あるいは最近のハロー全体の流れでもある、舞台女優としての勝負をするとよい。
いずれにしても、僕らは愛ということについてのジレンマを抱える。自分の為したことにおいて評価されたい気もするし、自分をただただそのまま肯定もされたい。


でも、「℃-ute days」を見て、胸のあたりに幸福感を膨らませることになる僕は、℃-uteをどう考えても愛しているとしか言いようがない。で、その愛しかたというのが、℃-uteだから何でもいい、というのでもなく、キャッキャッと遊んでいるのが楽しいんだけれども、それが℃-uteでなければだめだ、という点において、もはや存在も行為もないのだ。存在が空間を占めるもので、行為が時間を占めるものであるとしても、見とれている僕には時間も空間もない。それそのものが瞬間で永遠で、無であって宇宙全体でもあるようななにものか、まああえて言うなら℃-uteという神性に打ちのめされている。