ベリキュー!の楽しみ方

ベリキュー!」4回目が終わりました。
こんなにテレビにかじりついているのは久しぶりだ。
この番組はどうだ、つまらないか?いやいや、「存在」が垂れ流されているではないか!…どこで垂れ流されているか。この番組の見どころは何か。
回答するメンバーの後ろでちっちゃく映って口をあんぐり開けているなっきぃを見ろ!!!


1回目の「ベリキュー!」がはじまり、まのえりのあとスタジオにベリキューメンが映った瞬間、それまで心待ちにしていた僕の頭に懸念が浮かび上がった。これ、なっきぃ活躍できないだろう。
なっきぃのコメント力のなさ。どうしても優等生的コメントしかできないなっきぃ。矢口に似てしゃべりはできるが、バラエティセンスのないなっきぃ。多分答えが思いつかないか、面白くなくてカットされて放送されないんだろうなあ…ああどうしよう。どうしようもないよ。
さて、案の定バラエティ的おもしろ回答を出せないなっきぃちっさーにすっかりもってかれてしまってるよ。あーあ、なっきぃ。後ろにちっちゃく映るなっきぃ。でもとりあえず、後ろにちゃんと映ってるぞ。…かわぃぃ。かわいいな。ちょっと無防備か、口をあんぐりあけて、楽しそうに、ちょっとうらやましそうに、答えるメンバーの方を見るなっきぃ。ああ、その「存在」。その裸形にこそ僕は愛を捧げていいですか。回答するメンバーはカメラの前でついついその存在が「作品」へと、虚構へとメディアの力によって方向付けられてしまう。それはそれでもちろん面白い。しかしその背景で相対的に「現実」としてあるなっきぃ。ああほんとは「中島早貴」と呼びたいのだ、呼びたいのだけど、僕は本名を使わないことでアイドルを守る倫理を提唱したいのだった。ああ中島早貴、いや、ああなっきぃ、ぼくはもうなにがなんだか愛しいのですよ。
そこにただあるなっきぃが愛しい。それに僕はかじりつきたい。記述に還元できない存在としてのなっきぃ。その固有性が立ち現れる番組なのだ。僕は前景にある壷(回答者がその中に答えを言うのだ)になりたいとは思わない。なっきぃとともに背景の中に溶け込みたい。壷の中に答えはない。答えは、答えられないなっきぃの方にこそある。ああ、不可能性への欲望。