ガラスケースに閉じ込められるのは誰?

「都会っ子 純情」つんくコメント
『情報化社会の中で生きる都会の女の子。
実は、そんな都会に住む女の子たちのあり方って、
ちょっと昔とはだいぶ変わってきているように思う。
びっくりするほど、大人化しちゃっているタイプと、
見た目に関係なく、とっても無垢なタイプ。
この二つが極端な二極化してきているのではないだろうか。

℃-uteが歌う今回のシングル曲は、
そんな恋の低年齢化が叫ばれる昨今とは真逆の、
純愛を信じて一途な恋に生きる女の子の心を歌った曲といたしました。』


8月に行った「モーニング娘。学会」でも話題に上がった気がするのだが、恋愛観に関しての問題。
ひとつの立場は、「アイドルだって人並みで時代並みの恋愛をするのだ。だから時代錯誤的にアイドルは恋愛するなだとか、純朴な子供の恋愛を歌わせるのは、現代社会からの疎外である。アイドルはガラスケースの中に閉じ込められたかわいそうなお人形なのだ。」というもの。しばしばハローのアイドルに対してはこういう意見が浴びせられるのではないかと思う。
以前から述べていたように、そもそも℃-uteは恋愛の歌を歌ってこなかった。それが今回明確に恋愛の歌を持ってきたわけだが、それでもその恋愛観はBerryz工房と一線を画している。「恋の呪縛」なんて過激なタイトルで「恋の低年齢化」を切り取って見せるベリに対し、「純愛を信じて一途な恋に生きる女の子」という時代錯誤とも思える設定。これをどう捉えていくか。
もう昔のことで何の本だか忘れたが、もしかしたら有名な言葉なのかもしれないけど、「何かから疎外されるためには、まず何かへと疎外されていなくてはならない」というのを読んだことがある。℃-uteの恋愛観は確かに、現代の恋愛観からは疎外されている。だけれども、それは現代の恋愛観を肯定してこその「疎外」である。℃-uteは、現代の「大人化しちゃってる」女の子のような恋愛をさせてもらえず「かわいそう」なのか、それとも、現代の行き過ぎた恋愛至上主義社会から「解放されている」のか、どっちの立場だってありうるはずだ。実際、アイドルが恋愛禁止ってのはハローでは基本ルールとして残らざるを得ない以上、Berryz工房のように、歌詞とアイドルとしての実態が乖離してしまうほうが危ない、と僕なんかは思ってしまう。もちろんその危うさこそがBerryz工房の魅力のひとつであることも疑いようがないので、結局はどっちを選びますか、ってことだ。
つんくが「ロック」を目指すなら、それは「一般」へのアンチテーゼと言ってもいい。そういう意味では、℃-uteの恋愛観は、現代への立派な反抗かもしれない。
で、言いたいことは。じゃあ、ヲタは、ということ。
ヲタは「現実逃避」をする。労働から逃げる。(確かに、しっかりヲタやろうとすると、フリーターのほうが絶対的に動きやすいんだよな。)で、そういう「大人の論理」はもっともである。オタク批判はこうして完結する。
しかし、社会人のヲタであれば納得されると思うが、「社会人」はどう考えても「社会へと」「労働へと」疎外されている(いやもちろんこれもヲタである僕のバイアスがかかるわけですよ)。そうやって「現実へと」疎外されている現代人の自己保身のロジックとして、オタクは社会のお荷物だ、みたいな話が機能しているようで、めんどくさい。ヲタは確かに「現実から」逃避する(疎外される)かのようだが、「社会人」はしばしば「現実へと」逃避するのだ。何の違いがあるのか、僕は知らない。ヲタは「虚構へと」逃避し、「社会人」は「虚構から」疎外されるという言い方でもいい。どーなの、「現実」の特権性って、どーなの?
この間話題に出した、「それぞれのファン研究」という本でも、「労働」という資本主義のシステムからどう解放されるか、どう距離をとるか、どう付き合うか、みたいなことが取り上げられて、興味深かった。で、僕は、いまだに労働というものをポジティブに捉えられない。
ところで、このブログを書くという行為は、かかる手間を考えると労働と言ってもいいものであるが、報酬といえば星がたまにもらえたりブックマークをしてもらって喜ぶ程度である。でもそれが結構なモチベーションになったりするんだよな。あー、労働って何だっけ?


どうせなら、ガラスケースでも檻でもZeppTokyoでもいいが、かわいい女の子と一緒に閉じ込められたい。