私の中のモーニング娘。

いまさらだけども、新垣は本当にモーニング娘。を愛していると思ってしまう。
「吉澤さんが卒業しちゃうと私のなかでのモーニング娘がいなくなっちゃうんです」と語る彼女と、僕の視点は完全に一致する。2001年からのヲタである僕にとっては、4期までが「私の中のモーニング娘。」だ。それにしても名言だ。
卒紺はあらかじめ感動を用意する。そこの欺瞞を感じる向きもあるが、それでもサイリウム祭りは、卒紺に関しては文句なくやっていいことになったのだと思う。僕らは善意によって用意したシナリオによって感動をするし、アイドルも感動して泣く、というのが物語としてはベタであっても理想的に思える。そんな中、吉澤の決して泣こうとしない姿勢というのは、そうしたシステマティックな感動に対する軽い抵抗にも見えた。少なくともサイリウムがアリーナを白く染めて泣く気満々になっている僕は、吉澤の泣かない姿勢には違和感を感じたし(もちろんそれが逆に自分の立ち位置を示すことにもなるのだが)、メンバーの涙すら茶化しているように思える吉澤の強がりともとれるようなリーダーぶりは、過去の卒紺とは一線を画し、悪く言えばムードを壊す、よく言えば吉澤らしい卒紺であった。僕も途中まではともすれば「吉澤泣け」と自分の涙の道連れにする気であったのだが、「泣きそうにないな」と分かってからは彼女の頼もしさに感心した。
それにしても、このモーニング娘。という終わらないシステムよ。「黄金の9人」がいなくなろうが、モーニング娘。は存在しつづける。2001年のTVチャンピオン「モーニング娘。通選手権」の優勝者はたしか、「(モーニング娘。とは)終わりなき青春です。」と言ったが、言い得て妙。