「舞美」と戦う。

5月3日は午前中からチャーリイゴードン氏と萌え論やら娘。論やら現実やら虚構やら。
℃-uteを2公演見てから、チャーリイ氏と名古屋市街をぶらぶら。
基本的に遠征したときって、その土地の何たるかなんて知らずに帰ってきてしまうことが多いのだが、今回は少しだけ名古屋のことが分かったような(遠征で観光地に寄ったのは昨年の兼六園くらいだなあ)。
途中寄った書店でなかばそそのかされ気味で「舞美」を買う。U15の胸の谷間を強調したような写真集と並べられている「舞美」を掬い取る行為は、僕にとって堂々と完遂できるものではなかった。とは言え、はじめから大方買うつもりはあったのだが。
さて、夜は夜で名古屋名物を食し、ミスドで「舞美」を氏と共に鑑賞。名古屋駅付近のカプセルホテルに泊まる。


5月4日、ベリ紺昼のチケを持っていたものの、猛烈にモチベーションが下がる。なぜなんだろう。
まあ推しもいなくて曲も大して好きではないのだから、はじめから取らなければよかったのだ。そう、評論家然とした参戦はやめよう、というのがここ最近のポリシーである。体調もあまりよくないので、急遽ベリ紺回避。
ハロショに寄ると、いまだにミニモちゃんストラップが売られている。辻の写真を買ったら、メタリック写真で高かった。…で、メタリック写真ってなんだっけ?
のぞみで関東に戻る。家で「舞美」を鑑賞。さあ僕は「舞美」と戦わなくてはならない。
「舞美」は舞美がかわいい写真集であるとするならば、それを買った僕はヲタとして実存的危機を迎えることになる。なぜなら、「かわいければよし」は、アイドルの代替不可能性を破るものであり、「アイドルを滅ぼさないための倫理」を唱える僕にとっては敵である考え方のはずだから。だから、僕は舞美のかわいさはひとまず置いておいて、「舞美」を芸術作品として見るか、ネタとして見るか、という可能性について模索しなければならない。そして、舞美のかわいさにひれ伏すことなく、他のアイドルと代替不可能な何かを見つけ出したとき、アイドルであるところの矢島舞美を救済したことになる。と同時に僕も救済されるはずだ。さあ刮目して見よ。かわいさという虚像の奥に潜むアイドルの実像をえぐり出せ。
「…たぶん「舞美かわいい」って言うのが照れくさいんだろーな」と思っていただいて結構。