未来を見越し。

6月の℃-uteゲキハロ当落出る。
1勝1敗。さすがに千秋楽は無理か。
思えば、6年ほど前から僕は、青紙によって未来を決定されてきた。
冬に春の予感を与えられ、春に夏の熱気を窺い、夏に秋の気配を感じ、秋に冬の到来を思う。
そんな少し先の未来ってのは、大げさに言えば生きがいだった。
それがないからって死ぬことは絶対にないが、それが指針になった。
赤い日記帳をスケジュールとライブレポで埋めた時もあった。
その未来の中に、1年前までは確かに彼女も存在したのになあ。


もはやアイドルではない加護亜依に対して何かを書くことは、個人的な感情のやり場のない吐露となるか、同じ境遇のヲタ同士の傷の舐め合いとなるか、いずれにしてもみっともないと思うのだが、ヲタはみっともないのであるからそれでいいのである。
アイドルの人間の方の事情を知りようもない僕らは、自分の思いをぶちまけていいのである。罵詈雑言でも愛の限りでも叫べばいいのである。舞波の時に僕は書いたのだが、ヲタは駄々をこねるしかないんじゃないのか。だから僕は、春の現場で場違いのあいぼんコールがあっても許そうと思う。
あーあ、もったいない、惜しい。悲しい。かけがえのない存在を失ってしまったよ。
メディアが作り出した嘘で祭り上げられた彼女が、神輿の上から容赦なく落とされるんだ。ひとりの少女を弄繰り回して、酷使して、使い捨てるんだ。僕はちゃんと神輿を担いでいたはずなんだが。しかしわっしょいわっしょい、結構激しい動きなもんで、ちょっと油断すると、落ちちゃうんだ。ああ。…いやしかし、狭い神輿の上で彼女も随分楽しそうだったじゃないか。狭さなんか感じさせない自由な振る舞いだったはずじゃないか。そんな、立ってることもできないような危ないところで、誰もが目を奪われるような華麗なダンスをしてくれたのかい。それじゃあ、ごめんよ、足元の脆弱さには気づけなかった。


アイドル加護亜依は死んでしまった。僕らはこうしてブログで葬式をするしかない。
合掌ではなくて、合唱でもしようか、「恋愛ってなあに?」でも。