ヲタ視線(代替可能性に関して)

僕は、アイドルを滅ぼさないために、アイドルに権威を!ということを言ってきた。
その権威というのは、そのアイドルでなければならない「かけがえのなさ」であり、言い換えれば「代替不可能性」である。
僕は卒論で、図で言えば左(現実)から右(虚構)へヲタの立場が変わっていくことを「DD化」という風に考え、これはアイドルから権威を剥ぎ取っていくことだと思っていた。なぜなら、アイドルから意味を剥ぎ、形式のみ取り出していくことは、そのアイドルでなければならないという意味をなくし、「かわいけりゃだれでもいーじゃん」という風に、自己満足のためにアイドルを使い捨てて消費していくことだと考えたからだ。雑誌のグラビアアイドルを見れば、毎週違う女が顔と胸と尻を晒しているわけだが、その差異を「解釈」できる人は少数である。その「質」はとわれなくなり、「量」のみが問題になる。より大きいものへ、より若い子へ。
娘。はもともと、「ASAYAN」や「うたばん」や深夜の10分番組などで、アイドルを実存的存在として捉えていたと思う。少なくとも当初はアイドルは「キャラ」ではなかったばはずだ。そこでは思い入れをできる重い物語が展開していたはずだ(リアルタイムで見てないのだ)。それが次第に「うたばん」でも表層的な「キャラ」重視となり、内面よりも外にどう表れるかが問題になってきた。そうなるとアイドルのかけがえのなさ、は危機を迎えるじゃないか、どーすんだ、と思っていた。
ところが。今僕が最も「代替不可能性」を感じるのが辻なのだ。辻はどこにでもいるような気がする。自分の部屋にもいっぱいいるのですよ。すごく近くにいる気がする。だけど、絶対に届かない気もする。「近さ」と「遠さ」を合わせもち、「複製可能」なのに「唯一」であるというようなのを、しょうがないから「奇跡」と言ったり「神」と言ったりするのか。
ここでは二つの視線をまた提示することができる。

視線A:現実的代替不可能性
表層的なアイドル消費では、「だれでもいい」状態になり、アイドルは代替可能になってしまう。よって、アイドルの内面に踏み込み、「このアイドルは〜であり、〜であり、〜である。」という記述、説明付けによってそのアイドルを他の誰でもない唯一のアイドルとして権威付ける。

視線B:虚構的(?)代替不可能性
「このアイドルは〜であり、〜であり、〜である。」という記述は、アイドルを言語化する行為であり、いかに詳細な記述をしたところで、言語の性質上、常に代替可能性がある。(「このアイドルは、ASAYANのオーディションに落ちて、でも努力して、メジャーデビューを勝ち取って…」といかにそのアイドルの特別さを述べようとしたところで、その記述に当てはまるアイドルの唯一性は絶対に証明できない。なぜなら、「もしその記述に当てはまるアイドルがもう一人いたとしたら、君はどちらも同等に好きになるのか」という問いに対する答えは絶対にNOのはずだからだ。)よって、アイドルを固有名詞として扱うということ―記述に還元しない―ということが必要になる。「かわいけりゃだれでもいい」じゃなくて、「かわいいのはのんたんだけじゃい」という風に、それ以上の記述はしない。語りえぬものについては沈黙するという姿勢。

「普通名詞」⇔「固有名詞」、「言語」⇔「体験」というような二項。それを行ったり来たり。
大澤真幸「恋愛の不可能性について」、もう一回読んで理解しなおさないと、ダメだな。