松浦亜弥の人間宣言

相模大野紺中止についての謝罪、昼公演では涙ながら、だったようですが、夜はそれよりは落ち着いて言葉を選んでの謝罪になりました。
松浦亜弥ってのは、歌はもちろんにしても、MCのうまさ。
謝罪の時は重苦しい雰囲気になったけれども(若干の雑音は入ったけれども)、その後のMCはいつものヲタを手玉に取るトークでした。特に「私がデビューしたときに30だった人は今何歳なんですか」みたいなヲタ攻撃は辛辣ながら痛快だった。「一緒に年をとっていきましょう」と言う松浦。ただ、僕はこういう発言にひっかかるようになっている。松浦の「人間宣言」だとか思ってしまうのだ。
「一緒に年をとっていく」「進化」して行く――そう語るライブと、
「年齢(とし)とりたくない」「このままがいい」――こう言っちゃう虚構感溢れるライブって、演者のあり方に決定的な差異があるんじゃないのかなあと思うのだ。
僕は今回の顎関節症のせいで、松浦がアイドルらしさをまた垣間見せるんじゃないかという、意地悪な期待をもってライブに臨んだけれども、始まってみれば、いつもの完璧に近い松浦がそこにはいた。MCが完璧なのは構わないが、歌手として完璧な松浦はつまらない。いや、完璧ってのはどうでもいいんだな。人間を逸脱した「アイドルさ」がないんだな。例えば僕が「ね〜え?」をちゃんと踊るかどうかにこだわってるのにはそれなりに理由があって、この曲が「お人形さん」みたいな振りに見られるように虚構感を押し出したバリバリのアイドル曲で、さらに言えば「セクシーなのキュートなのどっちが好きなの?」って、僕らに迫る曲だから。春紺でこれを踊らない、ヲタにも踊らせないことで、僕は象徴的に松浦がアイドルをやめたのだ、と感じたが、やっぱり今日もテンポを落として、アイドルらしい踊り方(要は人間を捨てた狂気を感じさせるということ)は封印してしまった。セクシーでもキュートでもない、ただの人間、と言ったらファンの方に怒られるだろうが、僕は厳然と人間であり、歌手である松浦亜弥というものを思い知った。そこに弱さでも見えるかと思ったら、それもなかった。

はじめのMCの時、ヲタの歓声が予想よりも格段に大きくて、僕は驚くというより違和感を感じた。全体的にゆったりとして、僕は全然汗もかかなかったライブだけれども、ヲタのコールだとか歓声だとかノリ方ってのは、ライブそのもののスローな感じをはみ出して、幾分いれ込み気味なんじゃないのかってくらいの熱気だった。僕はその雰囲気に取り残されて、ライブに熱中するというライブにおいての本来の目的を全く果たせずに終わった。普段は冷めて見始めても次第に熱中できるのだけれども、今日はダメだった、どうしても。ライブ中に回文考え始める時点で、ダメだ。
僕にはよく分からないのだが、あやヲタはこのライブをそれなりに評価しているようだ。僕は去年あたりから松浦の「完全な歌手化」を懸念して、どうも松浦紺は敬遠気味なんだけれども、今日は復帰公演てこともあってか、厚生年金会館はほぼ満席だった。
松浦に心酔している人は、歌手として「進化」した松浦を認められない者を、「本当のファン」じゃないなんて思うかもしれないけれど、確かに僕は松浦のファンではないらしい。ただ、「信じてるあややとなら どこまでも どんな場所でも」って考えは、僕には絶対に出来そうにない。それは、自分がハローの「ヲタ」であるからだと思う。ここで言ってる「ヲタ」っていうのは要は、受動性と能動性のバランスを保ちながらアイドルを応援していくってことだ。「歌手」としての権威をまとった松浦に依存し、ライブ空間に安心して身を任せるってのは、僕からすればあまりに受動的過ぎて、正直言ってすることがなくて暇を持て余してしまう。これって一見、娘。の「メリピン」でも同じように思われるかもしれないけど、メリピンの場合は、依存して萌えながら、殴りたくなる、というバランスが取れている(むろん、これは応援するスタンスの問題であって優劣の問題ではない)。

さて、ライブの構成に関して感じたこと。
春紺でもそうだったが、雰囲気が何回か変わる、それをどう見るかだと思う。
僕はどうしても2003年までのノリノリのアイドル紺が好きなので、ネガティブな評価をしてしまう。ゆったりしたテンポ、生演奏で着席して聞くライブ、そしてメドレー、最後の「I know」。僕は夏のハロ紺のへんてこなメドレーを少し思い起こした。なんかいろいろ混ざって、これは調和なのか、それとも混沌なのか?そして僕はゴールデンタイムに民放でやっているバラエティ番組のことも思った。最大公約数的に、みんなを楽しませてくれるレクレーション。でも誰も100%は楽しめない、みたいな。だって、「スケバン刑事」の告知とか、生演奏のバンドとの絡みとか、僕には不必要に思えた。
それにしても、「可能性の道」を歌う松浦ってのは、すばらしい歌手だった。僕は本当にそれには圧倒された。歌声が松浦の身体を離れて、一つの芸術作品になっていた。だからこそ、僕は松浦から「アイドルとしての権威」は消失しているような気がして複雑でもあったのだ。


公演後、「あやや最高」「バンザイ」コールに、疎外される僕がいた。
結局のところ何が言いたいかって、情けないけど僕は「アイドルあやや」に未練たっぷりってことなのです。松浦に歌手としての才能がなかったらよかったのに、とか理不尽に言ってみたい。才能があるだけに、松浦がこうなるのは分かってた、2001年の頃から分かってたんです。それは確かにまぎれもなくポジティブな意味で「進化」であって、僕が「ないものねだり」してることは明らかです。旬の「アイドル」が見たかったらベリや℃-uteに行くべきなんだから。あーあ、思えば僕も年をとった。「年齢とりたくない」「このままがいい」って思うんだったら、やっぱり仙台に行くべきなんだろうなあ。