サイゾー9月号

U−15アイドルとして人気が高いという、しほの涼とその母、そして辛酸なめこの対談が載っているサイゾーを立ち読みした。
ほんとか、と思うくらいしほの涼がよく話せている。同時に、そこまで自覚的にアイドルをできているのかという印象を受けた。
以前、上野駅構内の本屋にローティーンアイドルの写真集がいっぱい並んでいるのを見て辟易したことがあったが、例えばそんなときに思うのが「親はどんな思いでやらせているのか」、そして「子供は利用されてかわいそう」という、ありきたりな非難の気持ちである。
で、母親が出てきてるわけだ。読みたくなったのである。
買ってないので記憶を頼りに書くが、大まかに言えば「U−15に過激さを求めないでほしい」「活発である、若さゆえのパンチラを愛でてほしい」というようなことが書いてあったんじゃないか。
意図的なエロではなくて、例えば「活発に動いてたらパンツが見えちゃった的な無自覚のエロ」というようなことを母は言っていた。本人だって、そういう自覚のもとに仕事をしてるんだろう。ふーむ、しかしこれ、もう無自覚じゃないなあ。無垢さを演出してるわけでしょ。難しいねえ、こういう裏話的な雑誌に出るのは。まあグラビア見たときに無垢さを感じられれば、いいのか。
グラビアアイドル→女優という流れってわりと一般的になったのかもしれないけど、15にも満たない頃からそういう戦略に打って出るのって、やっぱり相当な覚悟だなあ。いや、相当な覚悟じゃなくてもできちゃうのかもしれないけど、なんだか圧倒される。

ところで、「無自覚のエロ(ス)」ってどこかで聞いたような言葉です。そうそう、2年前のモーヲタトークライブでのWに関しての宇多丸氏の発言でした。
「要するに自意識のないエロスなんですよ」。
ロボキッスについてのこの分析は、今の辻にもやはり通じるものがあると思う。
「見せている」のではなく、「見えちゃっている」ということ。たとえば「へそ」ね。
性的な記号、セクシーさの象徴ではなく、なんか、衣装が短すぎて、あるいは、なんか着方がおかしいせいでたまたま、「へそが見えちゃっている」。いっつもへそを見せている辻だけど、そんな印象は自分の頭の中のどっかに常にある気がする。昔腹をポンポン叩いていた辻のままのへそがそこにある。そこにはセクシーさのかけらもなくて、ただへそがある。(じゃあその肉体の実在感がありありとあるかというと、それもまたどうかと思うんだけど。)
もともとエロと超越性って親和性があるもんなんだと思う。お祭りの日にだけ乱交するような民族がいることで分かるように。でもその、普段見えないところが見えるとか、普段隠されているものが露わになるという意味での超越性は、裸が溢れすぎている現代ではエロの中で見出しにくい。(だから後藤の写真集には何の魅力もないと思う)
エロが溢れて、同時に潔癖症でツルツルな現代の中で、辻ってじゃあどうやって超越性を獲得したかっていうと、まず前述したように自意識のないエロスってのがあって、それはエロが溢れすぎて、意図的に振りまかれたエロに嫌気がさした人々にとっての救いとなるような無垢という超越性だったろうと思う。(ローティーンアイドルのファンの一部はそういう人たちなんだろうなあ。)
そして、「ぶりんこうんこ」ってのがある。うんこしたり、おならしたりする。一番人間らしくもあり、それを普通隠すという意味では一番のタブー。そのタブーを破ることで唯一性・超越性を獲得した辻。(女性性からの離脱=腹をつまむとかポンポン叩くというのも、女性のタブーを破る、もしくは子供の無垢さという超越性だろう。)
超越性って、なんらか人間じゃどうにもならないものに対して言うものだから、人間がいかに知恵を振り絞っても、それが人間が考えたものである限り、超越性を帯びて崇拝されるものになる可能性は低い。だったら、人工じゃないものを崇拝しようとなるのは自然な流れ。なんらか人為を超えた偶然、あるいは人の手が加えられていない自然、あるいは一般的な人間の知性を持ち合わせていない「天然」を崇拝するしかないじゃないですか。モーニング娘。という偶然だったり、大人的な意味の世界の拘束を受ける前のキッズの「自然」、そして辻の「天然」。アイドルが人間と言ったって、なんらかそんな人の手の加えられていない、大げさに言えば「神の意志」によって作られたもんなんじゃなかろうか。
だって、見りゃ分かるでしょ。辻って、奇跡でしょ。…夢に出て来るしさ。