アイドルとしての現れ

ハロモニがつまらない。
ずっと言ってきたことだ。
一時期、じゃあそれをネタ的に消費するしかないか、という話にしたことがある。
しかし、残念ながらそれにしてもつまらないのだ。
番組がなにを目指しているのかさっぱり分からない。
子供向けとも思えないし、ヲタ向けでもない。
子供向けであれば、「戦隊もの」みたいにオタク的消費のしようもあろうが、もうしょうがない、ただ垂れ流している状態です。
そうした中でのアイドルの現れ――つまり真剣味だとか、一生懸命さだとかいうより、ゴールデンでやっているバラエティのような、誰がやっても同じような「どうでもよさ」しか目につかないという状況――を見るにつけ、どうしても彼女らへの思い入れがなくなっていく気持ちは否めない。
道重のように、一生懸命やらないほうがいい虚構性の強いアイドル像を創り出せるならともかく、他のメンツのなあなあ感とか、視聴者を馬鹿にしたような「内輪ウケ感」は見るに耐えない。たとえば、僕は決して小川を嫌いなわけではないが、ハロモニでの小川を見るかぎり、きつい言い方をすれば「芸能界やめたほうがいいんじゃないか」と思ってしまうのだ。それは小川の責任かどうかは置いておくとして、テレビ局側の責任は大きい。(小川ヲタの人ごめんなさい。ただあのハロモニを見て小川を愛する方法があるとするならば、僕はそれを教えてほしいです。)
アイドルを見るだけで満足する「動物」がもし多いのだとしても、作り手側には最低限のモラルがほしい。それは、ある程度頭で考えて番組を見ている層に、アイドルに対して愛想をつかさせないという程度の番組作りはする、ということだ。アイドル(少なくともハロプロ)は結局のところテレビでこそそのイメージの大半を形成する。であるならば、そこでのアイドルの現れが、我々を幻滅させるものであってはならないと思うのだが、ハロモニスタッフはどう考えているのだろうか。
思考の方法には2つある。「どうせ死ぬなら何をしても無駄だ」と考えるか、「どうせ死ぬなら一生懸命に生きよう」と考えるか。
ハロモニが「どうせヲタは見る」という予測のもとに作られるなら、深夜番組のようになにかしらの「理念」「信念」をもって作るべきじゃないのか。今のままでは、誰も幸せにならない、製作スタッフも含めて。

一方。
Gyaoの「ハロプロアワー」(5/12放送分)である。
これは、オタク的消費ができるわけ。
道重に生演奏で歌わせる時点で見る価値がある。
そういうわけで、この番組に関しては見方があるわけだ。
生演奏をバックにカラオケを楽しむ道重を笑うという見方が。(もちろんこれはバカにしているのではなく、道重の正しい消費の仕方だと僕は思う。)さらに、そのあとでキッズに歌わせることで、あー道重よりはうまいんだ、と確認できるつくりになっているところもうまい。最終的には後藤で口直し(というか耳直しだが)ができるという風に、歌の順番だけを考えてもよくできている番組である。
トークに関しては、ともかく話の伝わらなさ、バカさを愛することができるのでよい。ハロモニの場合、台本どおりにつくられているせいで、アイドルの虚実入り混じったところのドラマを感ずることが出来ないのに比べ、「ハロプロアワー」では、道重が自分で話を組み立てなければならないため、どうしても本性が垣間見える。そここそが、少なくとも初期の、言語的にアイドルを消費していたオタクが最も好んで食したものであったはずだ。
前にも言ったことがあるが、道重は「作られた虚構」であると思う。道重自身が作り上げている虚構である。憎たらしさだとか、腹黒さだとか、そういう部分まではじめから見える、あけっぴろげな感じがして、そういう意味で裏がない、という言い方をしたい。裏がない。すべて作られた上で成立している、そういう虚構。小倉優子に似たつくりであると思えるが、イメージ的には小倉よりも人格的な存在である気がする。

で、富山のライブの話に戻る。
思ったことをまずはいくつか。
①後藤の新曲はダメだ。
残念ながら、ハローのアイデンティティをかけらも感じない曲である。まあつんく以外のスタッフにそれを期待してはいけないのだが、avexのライブで聞けるような曲なら、そっちへ行けばいいだろう、と言いたくなる。逆に、美勇伝の「一切合切」はやはりつんく味だなあと思う。ところで、「愛〜スイートルーム〜」、なめちゃいけねえなあ。この作詞力、つんくでなければできん。
②辻はかっこよくもあるのだが。
好きすぎて バカみたい」とか「SHALL WE LOVE?」では、明らかに辻はかっこいい。踊りもうまいし歌もうまいからかっこいいのだが。
③のんちゃんが幸せなら僕も幸せ。
ベタすぎるのだが、そういうことである。今回相当の良席で見たのだけれども、いやもちろんレスをほしい気持ちもあるのだけれども、なんか辻の笑顔を見れたらそれでいいんじゃないか、というこの単純さ。そんな風に全依存できる辻ってのはやっぱりすごいのだ。
④ニャーと鳴く辻
「ニャーと鳴く辻」、そして、「キャッキャッキャッってなっちゃう道重と久住」は動物と言うにふさわしい。それって、東浩紀が言うようなヲタの「動物化」に合わせた、アイドルの適切な変化なんじゃないかと思うわけだ。僕らは「ニャー」とか「キャッキャッキャッ」とか「ハァーン」とか言って最近を過ごしているわけだが、だったらそれに合わせてアイドルも動物化したほうがいいだろう。それによって、ヲタはアイドルが生身の女性であるという不安を逃れられるわけだし、現場に来て鳴き合うだけで生きていることが確認できればそんなに楽なことはないのだ。
⑤辻と結婚したいと一瞬思った。
一瞬思ったのである。でもそれは想像ができない。
それは僕の想像力不足ではなくて、辻というあり方に関する問題だ。想像できたのは、加護と結婚する辻だけだ。つまり、僕が辻と結婚するためにはまず僕が加護にならなければならないというわけだ。…一回なったことがある。
それは置いといて、ともかくそういう風に、「現実の枠内での想像」ができないという意味において、辻ってのはやはり虚構の中の存在であると思う。道重が「作られた虚構」であったのに対し、辻ははじめから虚構なのだ。つまり道重が「人間→虚構」というベクトルなのに対し、辻はその逆「虚構→人間(動物?)」なのだ。虚構のキャラクターがなぜだか人間というかたちをとってこの世に現れている、ように見える、ということだ。
⑥辻の身体に関して。
加護のむちむち感は実在感と言っていいんだが、辻のむちむち感は虚構感だ。腹をつまむ辻は腹筋の存在感から解放されていてとてもよかった。ただ、左手首のキズが気になる。なにかインクのしみかな?前かがみになったときに胸に谷間ができてしまうのは僕は間違っていると思う。それとも紙面におけるしわだろうか。インクのシミなら、ホワイトで消した方がいい、とか冗談めかして自分の頭の中で遊んだ。
辻の胸の谷間ってのは、本当は見たくない。まあしかし、それくらいは許そう。辻がもうそろそろ19になるというのに(僕はそれも「設定」と言いたくなるのだが)あんなに「動物」で、「未成熟」で、「純粋無垢」である(少なくとも疑いなくそう思える)ことを奇跡だと思いたい。これが僕にとっての辻の「絶対性」である。