辻の存在について整理する

僕が加護のタバコを知ったときの印象は、「信じられない」というものではない。
ある意味、「加護らしい」と思った。想像できた。
そして、じゃあ辻はどうなんだろうか、と当然思考は及ぶはず、だった。
けれども、なんだか、それはできない。
辻がタバコを吸っているところを、想像できない。ありえない。
辻は原理的に、タバコを吸わないのではないか、そんなふうに考えてしまうのだ。
辻がタバコらしきものを吸っていたら、それはタバコではない。おもちゃかなんかだ。そうそう、シャボン玉を吹き出す玩具みたいな、煙を出す遊び道具かなんかだ。あるいはこう考えてもいい――だれかがタバコを吸っていたら、それは辻ではない。――そう、論理的に、「辻がタバコを吸っている」は矛盾している、そんなふうに考えざるをえないのだ。
辻は全てのものをファンシーにする。ファンタジーの世界にする。辻は辻という性質上、タバコとは相容れない。
…だけれども、僕にはまだしこりが残っていた。


「辻が存在しない」ということについてはだいぶ前から言ってきたし、多くの人が賛同することだと思う。辻はまるでアニメのキャラクターのように超現実的な存在だ。虚構のアイドルとして自分が考えている、つるつる、すべすべしたアニメ的な肌の均質さ。表層的な「萌え要素」に対して萌えるような「アニメ的萌え」=「DD的な推し方」の対象。
その容姿、言動、すべてが至高であって、現実のものではない。
ミニモニ。キャラ&メルがいとも容易にアニメ化されたように、あるいはロボキッスをはじめとするWのオリジナル曲のイメージでもそうであるように、辻は人間ではない。ロボットであったり、うーん、やはり虚構であると言いたい。
加護がその身体(あまり言いたくないけれども象徴的には胸)のあからさまな生身性(擬態語でいえばむちむちとでも言おうか)によって、どうしようもなく現実として存在することを感じさせるのと対照的に、辻には身体的に女性性を感じさせるものがない上に、声とかしゃべり方とか、アニメのキャラクターを思わせることが多々ある。年齢も性別も分からない。その、人としての人格が問題にならず、表層があればいい。実際にいなくてもいい。そういうのが辻だと思っていた。


しかし、去年の9月11日。その認識を揺るがされた。日記を引用しよう。
『6列左サイドで見た。辻の腹中心にだ。うーむ、縦に線が入ってる。腹筋のラインがはっきり見えるのだ。無駄のない肉体だ。腕の筋肉、ももの筋肉。視線はまるでアスリートに対するそれになる。…あれ、「生身性」こそが問題になっているではないか。その筋肉は、まさにそこに実在するという「確実さ」を感じさせる。
うーむ、虚構のアイドルとして自分が考えている、つるつる、すべすべしたアニメ的な肌の均質さなどそこには見られないのだ。
自分は「マジヲタ」と「DD」という二項対立の中で、辻に対する萌えを、その人格が問題にならず、表層的な「萌え要素」に対して萌えるような「アニメ的萌え」=「DD的な推し方」だと考えてきた。
しかし、こりゃあ、違うかもしれんぞぉ。
筋肉に対する萌え、というだけなら、そういう、「筋肉アイドル」という設定に萌えているのだ、といって済ますことも確かに可能かもしれない。
だが、振り返ってみると、ともかく自分は近くで辻を見たいのだ。そして、レスをもらいに行く。
それに、2003年以来、辻とだけ握手してないことを心残りにしてるではないかー
つまり自分は、辻とコミュニケートする可能性を信じているんだな。
だからそれを、「DD的な推し方」と言うのは、無理があるよな。
(中略)
辻は実在する。』


辻がタバコを吸うところを可能世界としてさえ想像できない自分は、「辻が虚構の存在である」と考えている。
しかし、辻の腹筋を見た僕は、「辻は確かに実在している」と思ってしまった。
こうして僕は、「辻は実在するのか」という問いを抱えることになったのだ。
これはもしかしたら「マジヲタ」か「DD」か、という問いと似たようなものであるかもしれない。またもっと深い問題であるかもしれない。とりあえず今日はこの問いを発してしまった経緯だけを記して終えることにする。ひょっとしたらキリスト教の三位一体説とか、勉強することになるかもしれない…などと思いつつ、今日は寝ることにしよう。