をめぐって

なんかタイトルかっこつけた。
まあ昨日の件の続きである。
道重がガチの地平に降りてきた。それが自分には衝撃だった。
道重は、娘。の受容のされ方を「キャラ萌え」に決定的に転換させてしまった存在だ、と自分は考えてきた。外面的な、表層的な情報に萌える。知覚的に消費する。そんなアイドルのあり方を決定的にしてしまった存在だ、と思う。で、それはアイドルが自らの首を締めることだと思うのだ。
そうしたことを東浩紀は「データベース消費」だとか「動物化」だとかいったわけだが、問題は物事の表層の中に隠れた、<意味>が問われなくなっている、という事態なのだ。
ここで言う<意味>というのは、まあ細かく定義する気力はないけれども、今言ったように表面的なものの裏に隠されたもののことで、アイドルで言えば、それはアイドルの人格――アイドルが何を考えているのかということ――であり、人間としてのアイドルの「生身性」のことだと言ってもよい。
自分が卒論の中で書いたことは、メディアでの娘。のあり方が、ASAYANでの抗争劇(=アイドルの人格を強く押し出す演出)から、うたばんでのキャラ重視の演出(=人格が問題にならないアイドルの表層的な面の強調)へ、という形で象徴されるように、アイドルの人格が問題とされなくなってきたことによって、一人のアイドルを崇拝するヲタのありかたが、次第にかわいけりゃいい、というような「DD」的なあり方へと変質した、ということだった。
メディアでの娘。の扱いがこのように変化してしまった原因としては、娘。がメジャーになってしまったことにより、ASAYAN的な、過激な手法が取りづらくなったことだとか、娘。増員で一人一人の内面を掘り下げることなどできなくなったとか、まあいろんな要因があるんだろう。
また、ヲタの「DD」化に関しても様々な理由があり、それは卒論だとか過去の日記とかでも散々書いた。ともかく、現状は、アイドルを人格的に尊敬する、というよりは、かわいけりゃよし、という「DD」的なヲタが増えていることは間違いない。アイドルを見に行く、というより、現場でヲタと馴れ合うという楽しみでそこへ行くヲタが増えていることは、アイドルへの心酔が弱まっていることの裏返しである。


前置きが長くなった。
どうもね、最近また、ガチ(=<意味>)への回帰が始まっているんじゃないか、と思うわけです。
我々は、結局あらゆるものにアイロニカルに接しているとつらいのです。何かを信じたい。何かを支えにしないと苦しいのです。「DD」的なあり方、確かにそれは楽だ、傷つくことはない。例えば、矢口がいきなり抜けたって、表層レベルでの推しにとどまっていれば、ショックを受けずに済む。人格レベルで崇拝してたら、傷つく、矢口はどう思っているんだろう、とかいろいろ考えて苦しむ。だから、あらゆるものに対して距離をおき、思い入れを深めないという戦略はある意味正しい。 「アイドルに没入したって、意味がない」
しかし、それでは虚しい。ガチの地平で感動したい。そんな反動がそこかしこで見える気がするのだ。
たとえば、ガッタスだ。否応なく勝負がつく、ガチの世界だ。だからこそ、各メンバーの頑張りだとか、気合、気迫というものに感動する。勝利に、歓喜する。
たとえば、ベリ工だ。石村の卒業だ。ハロプロ内に残る、さほど意味を持たない卒業ではなく、芸能界から去る、という完全なる卒業。そのガチを求めて、オークションでチケットが高騰した。
そして、文化祭だ。道重のガチ。すくなくとも、自分は感動した。訴えに対して、それを素直に受け止められた。多くのヲタはもしかしたらそれをネタ的に消費したかもしれない。でも、おそらく一部のヲタは、そこに本気を見出し、それを本気で受け止めようとしただろう。
娘。の人気が落ちたように見え、ベリ工のヲタが増えているのは、そうしたガチというものを感じられるのが、ベリだからだ、ということなんだろう。娘。のほうでもガチを見せてみろ、とゆるゆるのハロモニを見ているとどうしても思ってしまう。6月のモーヲタトークライブでは、ASAYAN的な手法を復活させるべきだ、という意見が強く出た。死が意識されないと生のありがたみが理解できないように、アイドルに負荷をかけて、その困難に負けず頑張っている、ということを見せないと、アイドルの「かけがえのなさ」は現れない。結局、頑張っているように見えるかどうか、かあ。なんて単純な結論なんだろう。でもそれは真実だ、多分。