信じない

現実と虚構、主観と客観、内面と外面といった二項の混ざり合いがヲタを形成していることは間違いない。そして、そのバランスによってガチ(ベタ)志向の「マジヲタ」かネタ志向の「DD」かが決まる。
マジヲタはどちらかといえば言語的な情報を求めるように思える。娘。について深く語る。情報の表層から裏側を想像して語る。
DDはどちらかといえば知覚的な情報を求めるように思える。かわいさ、声、キャラ。意味の深みは追求しない。表にあるものをそのまま消費する。
ただ、どちらも、何かを「信じない」という点では同じであるとも言える。
マジヲタは、物事の表層に表れているものを信じない。メディアで流されるものを素直にそうとは受け取らない。アイドルの言動を、そのまま彼女の人格の表れとは信じない。たまに、不意に表れた無防備な表情をこそ「本当」の「素」が表れたとして愛でる。徹底して、真実の姿を求める。だから、ガッタスのように「素」の頑張りが見えるガチの場を好む。マジヲタは徹底的に現実志向なのだ。
DDは、そういう「本当」とやらを信じない。情報の裏側にある何か「真実」とやらを信じない。メディアで流されるものを、そのまま享受する。メディアを通したアイドルを、そのまま作品のように、作り事として消費する。はなっから、人間としてのアイドルはいないのだ。だから、すべては自分が楽しむための、冗談なのだ。自分が楽しめるかどうか、が行動の基準となる。
こうして「深く語っている」自分はマジヲタだけれども、それでも「DD」的な要素も多分に含んでいるのであって、ヲタは大体みんなそうだ。それゆえに、ヲタは複雑な人間だ。そうやって複雑にしてしまったのは様々なメディアの発達によるものだろう。もう何かをただ素直に信じられる時代ではないのだ。ヲタはいかにも今の情報化社会にふさわしい存在ではあるだろうけど、やっぱり手放しで肯定できないなあ、そのあり方は。
つまりそれは自分の実存的な問いでもあるんだろうけど、やっぱり何かを信じさせてくれ、と叫びたい。そうそう、最近めっきりメンバーの名を叫ばなくなったのだ、現場で。素直に信じられないから叫べないのだ、多分。だったら、形式から入るか。信じるために叫ぶか。マジヲタ→DDは言い換えれば「<意味>」→「形式」の移行だった。その逆は可能か?「形式」→「<意味>」へ。叫ぶことによって信仰心を回復せよ。
よっしゃ叫ぶぞ。
せ〜の!
「らふたま〜ん!」*1


…あ、変なの出てきた。




あーまたネタに走ってしまった。要は、世の中はアイドリングストップ*2の流れってことか。

*1:「らふたま〜ん!」…STOP温暖化体操の時に登場した変な顔のキャラクターですな。ちなみに体操では蛇口を閉めるだとかエンジン止めるだとかへんてこな動きで、道重に感銘を受けていた自分はそんなのに付き合うわけもなく。

*2:アイドリングストップ…過度にアイドルに没入しても意味はない、と自分が「DD」として生きていくことを宣言すること。