岡パイ現象

岡パイ現象というものは真面目に語られていいことだと思う。
今のヲタの動向を測る上で。


まずは今日のライブを岡パイという視点で見てみよう。
確か曖昧ミーMINDでは明らかに岡パイを意識した振り付けになっていたはずだ(ただセクシーな振りだというだけなんだが)。
そしてハニーパイのあと、「パイといえば岡田」とばかりに岡田が登場、そして「ストロベリーパイ」へつなぐという、意図的な構成。
最後のBE ALL RIGHT!の「居眠るチチの毎日」のところでは完全に誤変換されましたよ。


まあ冗談はさておき、ヲタの中でネタにせよ岡パイ目当てで来ている人間がそこそこいたことは間違いない。まわりで牌牌叫んでたやつがいたしな。
ヲタがそうした、身体的なことに対して過剰に反応する、ということは今までなかなかなかった。あいぼんにがっつくくらいで。ハローというのがそもそも2001年以降ロリ路線に走り、身体的には未成熟であることをひとつの条件にしていた感があるのだ。そしてベリ工でその方向性極まれり、という話だったはずだ。
ところが、この際はっきり断ずるが、その牌ゆえに岡田は加入した。岡パイ現象は意図的に作り出された(まあ偶然だったとしてもそのようにヲタが反応するという現象が重要なのだ)。


アイドルへの崇拝の志向性がアイドルを生き長らえさせる。
それがアイドルの身体への部分的な崇拝でも構わない。
ところで、岡パイ現象で重要なのは、岡田が「かわいくない」ということである。かわいいと思ってるファンの人すまん。
岡田がかわいかったら、巷に溢れかえるグラビアアイドルと変わらないではないか。そして、そうしたアイドルは溢れているがゆえに代替可能なのだ。つまりアイドルとしての超越性に欠く。
何か絶対性、それでなければいけない唯一性がなければいけないのだ。


「岡田はかわいくないのに、そのパイが崇拝されている。それは、岡田が唯一性を持った超越的存在だからだ。」このようなロジックで岡田は超越性を獲得する。麻原彰晃が見た目としてはただのおっさんであるがゆえに、逆に信者にその超越性を認められたように、岡田は顔が普通であるがゆえにヲタの「アイドル」になりうるのだ。
つまりここでヲタは、以前のようなスタンス、「バカバカしいものをそうと分かって没入する」を取り戻すのである。じゃあ今はどうかといったら、よりアニメ的萌えに近い、情報の表層に直接的に感応するヲタが増えている、と言っていい(東浩紀の言う「動物化」ですな)。アニメ的萌えでいいんならアイドルという実体はいらなくなってしまう。
自分は岡パイ現象がアイドルの崇拝をまた引き起こすことに少々期待している。
そうしないと、私らヲタ、もうステージ見ないでしょ。


岡田の「唯」って名前に、そんな意味を託してみてもいいんじゃないですか。
考えすぎですか、あーそうかも。