アイドルの動機づけ問題 〜アイドルの使命とは何か〜


モーニング娘。の歌詞が最近自己言及性を強くしていることは、多分各所で指摘されている。「愛の軍団」は、愛(好意)を商売のネタにしている軍団ということだから、当然グループアイドルとか、アイドル集団とか、モーニング娘。のことを指していることになる。いろいろ深読みするのが楽しい歌詞になっております。アイドルの自己言及曲は、まずはアイドルに寄り添って読んだ上で、さらにそれを私とか現代人とかに抽象化して見てみる、という過程が面白い。モーニング娘。の歌詞は最近抽象度が高いのでそういうことができる。以下、歌詞を少し引用して考えてみます。


愛あるムチなら仕方ないって
ほんと? ほんと? ほんと? ほんと?

これ体罰問題を扱っているようにも読めるし、アイドルだったら握手会で説教するヲタみたいにも読めるけど、「愛ある無知」だと、もっと普遍性を持つよね。


叱られるうちは花とか言うけど
ほんと? ほんと? ほんと? ほんと?

叱られるうちは花(=アイドル)、ってことは、いろいろ非難も受け、アンチもついているのがアイドルの証明という感じかな。


世間を知らず 街を飛び出し
ここで暮らす今
いつの間にやら ふるさとのような温もり感じてる WOW

これこそ日本各地から集まっているモーニング娘。をよく表しているようでもあるし、田舎から大学進学時に上京して、就職してどこかに移り住んで、っていう現代人にも響くものがある。「温もり」を感じられているかは分からないけど。


孤独と戦い
大きな力に飲み込まれない
愛の軍団

ここの部分はなんとでも読み込めるので、好きに読んだらいいんじゃないでしょうか。



さて、自分が一番気になったのは以下の歌詞なのですが。


目的知らず この世に生まれ
歳 重ねた今
使命感的な何かが生まれてきたのは事実

結婚したりとか、子供ができたりとかすれば、こういった使命感的なものが生まれるんじゃないでしょうか。あるいは、アイドルファンは、アイドル現場に行くことをもはや使命と感じていたりするのかもしれない。では、アイドルにとっての使命とは何なのか。


AKBのドキュメンタリー映画第2作の感想として、以下の記事を書いた。
労働者としてのAKB http://d.hatena.ne.jp/onoya/20120223
映画の中で峯岸みなみは、被災地でのライブの体験から、「(アイドルとしての活動は)自分のためもあるけど、誰かのためになってたんだって気づきました」と話す。


「自分の夢を叶えるためのアイドル活動が、一般の人たちに希望を与えているということ。それは労働への大きな動機付けになるだろう。多くの人間は、自分のためにだけ生きるということが、実は難しいように思う。なぜなら、自分の行動が正しいと信じるための根拠が自分の信念だけだと、多くの人間は不安になるからだ。だから、他人の役に立っているということが、その活動を正当化してくれることは非常に重要だ(ほとんどの企業や就活サイトには、その仕事がいかに社会的に有用であるかがこれでもかと書かれているだろう)。AKBの活動は、メンバーにとってはもはや社会的な使命にも感じられているかもしれない。」(自分の記事より)


奇しくも自分は昨年、「使命」という語を使っているのだが、このような形で、一定の人気と影響力を獲得した有名人は、利他的な視点を自然に獲得していく場合があるのではないかと思う。
もちろんそういう利他的な視点を獲得することが、自らのアイデンティティを強化してくれるのだから、それは結果的には利己的でもある。しかしそれをもって欺瞞的だというのは、あまりにも短絡的であろう。


いずれにしても、こうした華やかな世界での動機づけ問題は非常に興味深い。なぜなら、アイドルの世界はやっぱり労働として決して楽ではないだろうということが容易に推察され、アイドルファンの身としては、アイドルにアイドルでいることが楽しいとか、やりがいがあるという風に思ってもらいたいからだ(そいでもって辞めないでほしい、大きく言えばアイドル文化が滅びないでほしい)。
はじめは何かキラキラしている世界に憧れて、きれいな衣装を着て人前で大好きな歌を歌って踊りたい、という単純で自然な動機だったものが、実際にその世界に入って活動を続けるにあたって、現実的な側面を目にして、時に幻滅したり、辛い思いをしたり、疲れてしまったりする。それでもアイドルを続ける何かメリットがあるのか。モチベーションを持続させる何かがあるのかはとても大事なことだ。そしてそれは、ファンからの応援や感謝だったり、仕事そのものの楽しさや自己の成長に関する充実感だったり、あるいは有名性の獲得や社会的影響力の増大だったり、他の有名人との交流だったり、金銭(これはあんまりないか)だったりする、のか。




「AV女優の社会学」は、アイドルのように「愛」とか「性」とかに関する何かを売りにしている女性が、どのように労働に対する動機づけを変質させていくかを丁寧に追っている。華やかな世界が好きだったり、単に性行為が好きだったり、あるいはただなんとなくAVの世界に入ってきた女性が、仕事経験を積むにつれ、あるいは「面接」を重ねるうちに自ら「AV女優」という自己認識を強めていく過程で、何らかのやりがいを見つけていく。それは周りのスタッフからの信頼だったり、新しいジャンルへ挑戦することによるスキルアップであったり、様々だ。当初単体AV女優として金銭的にも体力な面でも恵まれた条件であったAV女優が、企画AV女優となって労働日数的にも実際の撮影での体力的なきつさで言っても厳しい条件になりながらも、新たなモチベーションを獲得して、より労働に励む。それは決して外から安易に「やりがいの搾取」と言って済むものではない、その労働主体の強さと、一方で現実ってそういうもんだよ的な宿命論の綯い交ぜになった有無を言わさぬ現実感があって、唸る。



目的知らず この世に生まれ
歳 重ねた今
使命感的な何かが生まれてきたのは事実

目的を知らず、アイドルとしてこの世に生まれ、歳を重ねて今に至る。…歳を重ねたというほど重ねていないのに、重ねたという表現をしてもいいほどに、アイドルの時間感覚は速い。そしてアイドルが「使命感」という言葉を使うのは何とも大仰だから、「使命感的な何か」と言うしかない。この曖昧な表現が絶妙である。だけど一方で、「自分を信じて行くしか無い」という決意もある。そして、自らを「愛の軍団」と恥ずかしげもなく言い切るのである。モーニング娘。のファンだったら、その強さを礼賛したくもなるし、あこがれるだろう。
よく考えれば、「使命(感)」という言葉を何のためらいもなく言える人間など、どれだけいるのだろうか。この曲は、それでも自分を信じて行くしか無いよ、という応援歌でもある。



アイドルの使命と言った時に、どうしても、震災後のSMAP×SMAPを思い出さずにはいられない。私はアイドルが社会をよくする使命を持っているなどとは考えたくはない立場だが、結果的に影響力をもってしまった彼らが、自らができることをした結果があの番組だったのだとしたら、それはそれで素晴らしいことだと思う。
もし人類滅亡の危機が来て、自分しかこの危機を救える人はいない、けれどもそれによって自分だけ死ぬ可能性がかなり高い、という条件に置かれたらどうするだろうと考える。多分、危機を救うべく行動するのではないか。それは自分の意志でもありながら、一方でどうしようもない定めとしか言いようのないものでもある。
アイドルも人類も、「煩悩」から始まって、最後は利他的な悟りの境地に行けると、いいね!(適当)