奇術の困難と可能性について

さて、その後の演目を見続ける中で感じたのは、奇術の困難についてである。いやもちろん、それぞれのマジシャンの演目はそれぞれにすばらしいもので、また時に笑いもはさみながらエンターテインメントとして優れたものだと感じた。しかし一方で奇術の難しさを様々な点で感じることになった。
まず1点目は、奇術が視覚情報に強く依存しているということだ。奇術は、何をしているかちゃんと見えなければ、不思議だと思ってもらえないのだから意味がない。よって、自ずと観客数に限度がある。大規模なイリュージョンなら別だが、手先の細かい技術で魅せるマジックであれば、今回の会場(1階席は270席程度)でも限界ではないか。音楽のライブは聴覚が主であるから、万単位で客を集めることが可能だが、奇術の場合は視覚という制限があると、実際に見ていて気づいた。
2点目は、説明責任である。カードマジックなどは、少し複雑なものになると、誰でも思いつくような不正・抜け道の余地がないことを説明した上で行わなければならないし、ルールを説明した上で、マジックが行われた際に誰の目にも不思議と感じられるようにしなければならない。特に観客が参加者となって、カードやなにかを選ばせるマジックの場合、ルール説明等の前段階が冗長になり、マジックの雰囲気が壊れそうになったりもする。
3点目は、道具についてである。マジックは完全に奇術師の手先だけで行われるようなものでない限り、いろいろな道具を使って行われる。その際、行われたマジックが、奇術師の何らかの技術によるものなのか、それとも道具にからくりがあるものなのかが分からず、どのように感心してよいか戸惑うことがあった。たとえば、「物を浮かす」というマジックがあった場合、もう今の時代、勝手に浮くような道具くらい想定できてしまうわけで、不思議かどうかがよく分からないまま拍手をする、ということになる。「不思議」という感情は、ある常識があって、それを逸脱する事象がある場合に発生するもので、そもそも前提となる常識が観客に共有されていなければ起こりえないのだ。いまやほとんど誰もが持っている携帯電話は、使う人間のほとんどがその原理を知らないという意味では魔法のアイテムと言ってよい。そんな道具に囲まれて生活している我々が、一体何を常識として、何を不思議がれるのか。
最後に、3点目とも関係するが、我々は、マジックが「タネもシカケもある」ということを知ってしまっている。人に刺激を与えるためのいろいろなシカケにあまりにも慣れてしまっているということだ。目の前で、どんなに目を凝らしても抜けるところなど見当たらない箱の中から人が消えても、その技に感心こそすれ、強く驚くことはない。「松旭斎すみえ」さんがマジックをしながら、「タネもシカケもありませんと言うと、今は笑われる」、「小学生に『タネもシカケもない手品なんてあるの?』と言われる…やりにくくてしょうがない」とぼやいていたが、これは半分本気かもしれない。我々はちょっとやそっとでは驚かなくなってしまったし、物事を疑うことにも慣れてしまっている。だから奇術師は、ただ奇術を披露するだけでなく、笑いを起こしたり、歌や踊りの要素を加えるなど、総合的なエンターテインメントを提供しなければならない、という側面もあろう。



ところで、このイベントは「松旭斎天一没後 100周年記念公演」とも銘打たれていた。「松旭斎天一」は「日本近代奇術の父」と呼ばれている存在だそうで、日本の伝統的な奇術と西洋奇術を融合させた明治時代に活躍した奇術師だ。その没後100周年記念公演ということもあってか、この公演は「伝統」を強調する演出が目立った。
グランプリを受賞した藤山晃太郎のオフィシャルサイトに本イベントのチラシ画像があるので参照してほしい(http://www.wazuma.jp/sp/20120209.html)。藤山晃太郎氏が立派な紋付袴で、さながら歌舞伎等の伝統芸能の役者といった感じである。実際、藤山氏は「手妻」「和妻」と呼ばれる伝統的な芸能の継承者だそうだ。グランプリ授賞式では、BGMには尺八かなにかの演奏が流れ、またトロフィーと共に、受賞者の名が入った「招き」という看板(歌舞伎に由来するものらしいのだが)が手渡された。
演目の3番目に登場した北見マキ氏の紹介をする際には、司会の方が「わび、さび」という言葉を用いたし、北見氏は演目中に見得を切るような動作もあった。「マジック」を見に来たつもりだった自分は、それを当然のように「西洋奇術」と考えていたのだが、このような形で日本的な奇術というものが、他の伝統芸能ともつながる形で存在することに新鮮な驚きを覚えた(マジックそのものよりももっと驚いた)。
トリを務めた藤山氏の演目は、伝統的な「和妻」で、「蝶の戯れ」「万倍芸」「水芸」と呼ばれるものを演じた。これらは自分が想定していたマジックというものとはかなり違って、古典芸能と奇術が縒り合わさった不思議なものだった。たとえば「蝶の戯れ」は、初め破った半紙を扇であおぐことで、半紙を蝶と見立てるもので、それ自体は奇術でもなんでもない。その後奇術へとつながっていくのだが、その融合の具合が新鮮でもあり、また見方を知らなければどう見てよいのか戸惑う部分でもあった。「水芸」も、演者の技巧が優れているのか、それとも装置、からくりがすばらしいのか、一体何を基準として見るものなのか、初見の私には分からなかった。とはいえ、一方で演者の圧倒的な存在感というのもあり、自分の知らない奥深い世界が広がっているのだろうと、ただ想像するのみである。しかし今思えば、これもまたアイドルへの視線との類似を感じる。つまり、アイドルと言った時に、ある人間の身体のみを考えるのではなく、現象全体を見るということ。たとえば、「Perfume」に対して、口パクとか言ってないで、舞台装置と演者の身体を込みで、総体として見ていくこと。これと同様に、マジックというものも、舞台装置やら演者の動き、衣装、アシスタント等ステージ上の全てを総体として捉えるものと考えればよいのかもしれない。



振り返って全体として言えるのは、たとえば司会の調子とか、受付まわりの様子とか、あるいは終演後の雰囲気とかもそうなんだけど、どうも若者向けに売り出していこうという雰囲気を感じない。一言で言えばいろいろなところに古臭さはあった。日本奇術協会のサイトを見ても、なんだか古めかしい印象は否めない。奇術は前述のようにいろいろな困難もある一方で、万人に対して訴える力があるのだから、もっとうまい売り出し方があるのではないか、という気もするのだ。
定期的にさまざまなイベントを打つプリマベーラや、ニコ動やtwitter、ブログ等を積極的に活用している藤山晃太郎氏を見ると、あるジャンルが古い古くないではなくて、その内部の人間の、外部への見せ方ひとつなのだろうと思う。藤山氏の公演、機会があったらまた見たいと思ったもん。何の関心もなかったアイドルファンだけれど。