『アイドル領域Vol.3』[総論]アイドルと自己言及

「アイドル」という存在・現象に関してひろく語るための同人誌『アイドル領域』、第3号の特集は「自己言及」としました。実は特集に「再帰性」という言葉を使うかどうか悩んだ末、あまり堅苦しく構えるのもどうかという思いと、単純にアイドルの自己紹介や自己紹介ソングについても扱いたいということから、「自己言及」という言葉を選択しました。以下、特集の意図と各論考の紹介をしていきたいと思います。
 
「自己言及」や「自己言及性」という語は、20世紀に学問や諸芸術における重要概念となりました。物理学、数学、論理学、社会学その他諸学問において、また絵画や文学、映画といった芸術の分野でも、この概念が重要な役割を果たしてきたように思います。それは、自己言及をする主体(作品)が、その主体が属する全体に対して、何かしらの問い直しを突きつけるものであったからではないでしょうか。
「アイドル」という現象もまた、「自己言及性」とは切っても切れない関係性にあります。そもそも、『アイドル領域創刊号』で指摘したことですが、アイドルは常に「アイドルとは何か」と問われてきた存在です。それは消費者側からの一方的な問いかけではなく、送り手側も、「アイドルとはこのようなものである」というその時代時代の暫定的定義づけの中でアイドルを送り出し、またその定義づけの運動に自ら参与してきたように思えます。そして現代、もはやそうしたアイドルの定義づけ(アイドルらしさ)をめぐる闘争はアイドル自身が担うようにさえ見えます。
 また、もっと個別的な自己言及もあります。アイドルはその「存在」自体が問題となる現象であり、たとえば曲を売り出すにしても、その曲を誰が歌っているか、ということが重要です。この場合、アイドルが歌詞世界の内部においても同様にアイドルとして現れること、つまり簡単に言えば、歌詞の中にそのアイドルの名前などの情報が入れ込まれるような自己紹介・自己言及ソングが一定数作られることになります。
 このように、アイドルにおける「自己言及」はいくつかのパターンに分けられると言えるでしょう。しかしそれらは截然と分けられるものでもありません。Aというアイドルがいた場合、Aにとっての自己は、「アイドル」であり、Aが所属するアイドルグループのことであり、アイドルA自身であり、あるいはアイドルを取っ払った「素」のAのことでもあるかもしれません。それをどう解釈するかは、受け手であるファンに委ねられる部分もあり、またそれらの「自己」のゆらぎ、多重性が、アイドル楽曲に深みを与えるという側面もあるでしょう。それは我々を煙に巻くとも、魅惑するとも言えます。
 『アイドル領域Vol.3』、前半は主に楽曲を中心とした「自己言及」について、論考を寄せていただきました。いぬいぬ氏「自己紹介ソングの歴史」は、主に80年以降の、アイドルの名前が含まれる楽曲とその時代背景についての考察です。斧屋「「アイドル」を歌う歌詞に見る「アイドルらしさ」をめぐる闘争」は、「アイドル」を歌っている楽曲の歌詞から、それぞれのアイドルが自らをどう位置づけていこうとするのかという「闘争」の模様を分析します。のりのりの氏「AKB48における過度な自己言及とはなにものか」は、AKB48を中心とする秋元康プロデュースの楽曲やその他活動に見られる過剰な自己言及性が何を意味し、目的としているのかを分析します。ささ氏「ジャニーズの歌詞構成における自己言及性」は、ジャニーズにおける自己言及の楽曲を4種類に分類した上で、それらが何を表現し、ファンにどのように受容されているかを考察します。モリノキツネ氏「RW文化がもたらす『初音ミク』の「自己言及ソング」」は、「初音ミク」の「自己言及ソング」の成立を「キャラクター付け」とは違う側面から読み解こうというものです。


さて、もう少し話を深めていくことにします。誰かがある対象をアイドルと見なす場合、それは彼自身の「アイドル観」とでも言うべきものから為されているでしょう。その「アイドル観」は、彼がそれまでの人生の中で経験してきた個々のアイドル(と見なされてきた存在)に関する情報またはアイドルという語をめぐる言説によって淡く曖昧に規定されているはずです。そして、「ある対象をアイドルと見なす」という行為によって、彼のアイドル観は強化または微妙に補正され、変化していくでしょう。こうした形で、個々人の「アイドル観」が時々刻々変化していきます。もちろんアイドルの送り手側やメディアにおいても同様です。アイドルという語や概念をめぐって、各主体が相互に参照し合いながら、アイドルという語のイメージを創り上げていきます。
 ここで、「再帰性」という用語を導入してみます。社会学者ギデンズは近代の特徴として「再帰性」が見境もなく働くことを挙げます。「再帰性」とは、「社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていく」という性質のことです 。これをアイドル現象について当てはめるなら、アイドルがアイドルに関する新たな情報によってその営みを不断に変化させていき、その結果アイドルというものの意味・性質が問い直されていく動態を「再帰性」と言ってよいでしょう。最近の「『アイドル』の意味を回復する」とか、「アイドル史を更新する」とかいった(多少のいかがわしさも含む)言葉 も、アイドルという語の「再帰性」を表したものです。
 アイドルにおける再帰性も、当然様々な主体の間に見境なく働きます。ファン、メディア、アイドル、アイドルの運営側の人間。それぞれがお互いを参照し、影響を与え合いながら、また自ら自身をも不断に再規定していきます。いまやアイドルを仕掛ける運営側の人間だけでなく、アイドル自身がTwitter上でファンの言動を補足している時代です 。
こうして、常にアイドル自身を含むアイドルの送り手側が、アイドルをめぐる言説をモニタリングしながら自らをプロデュースしていく場合、それは既存のアイドルのパロディという側面を含むことになります。また「現実」「虚構」や「素」「キャラ」「演技」といった、アイドルをめぐって議論を呼びそうな言葉の用法に関しても、アイドル側が巧みに取り込んで自らの「アイドル性」の糧としていくことでしょう。その過程で、なにが「アイドル」であるか、どうすることが「アイドル的」であるかということが絶え間なく変転していくのです。こうした動態がアイドルに収斂していく時、アイドルの表れ、表現は必然的に自己言及的な性格を持つことになります。
『アイドル領域Vol.3』後半は、こうした再帰性をめぐる文章により構成されています。阿久井枇劇氏「アイドル論の手前〜人間嫌いがアイドルを語るための調査報告書〜」では、アイドルを語るにあたり「未熟―完成」「虚構―素顔」「システム―身体」といったアイドルをめぐる対概念が結局は失効していくことを確認しながら、アイドル論の書き方を探ります。また、文章末尾に記した大量の参考文献は、「アイドル」を考えたい者にとっての優良な文献ガイドとなるでしょう。香月孝史氏の二つの論考「「演劇」と「アイドル」の二重写し――アイドル演劇再起動のために」、「恵比寿マスカッツというブレイクスルー――セックスとTVとアイドルグループ」は、「演劇」と「バラエティ」という、どちらもアイドルにとって「本領」とは見なされないような活動において、どのように「アイドル」とそれが両立しうるか、またその中で「アイドル」というあり方がどう捉え直されていくのかという視点に貫かれています。メイヤン氏「ドキュメンタリーとアイドル 〜リアリティと物語を確保する「現場」〜」は、ソロアイドル吉川友の主演映画(&ミニライブ)を中心的な材料にし、ドキュメンタリーとアイドルの関係について考察しながら、アイドルの物語やキャラクター性が変容し展開していく様を追います。斧屋「かけがえのあるアイドル、AKBN0」は、AKB48のより先鋭化されたパロディ、パクりアイドルとして存在するAKBN0が、それゆえにAKBを中心とする現在のアイドルのシステムを強く象徴的に反映している存在であることを描いていきます。
 同人誌の最後には、斧屋・香月・メイヤンによる座談会を収録しています。AKB48の「江口愛実」問題からアイドルの「現場」の問題まで、広く最近のアイドルをめぐる議論を交わしています。
 『アイドル領域Vol.3』(特集・自己言及)、ぜひ熱のこもった各論考をお読みいただき、読者の方もさらなるアイドルの再帰性、自己言及の渦に揉まれていただければと思います。読者各位がそれぞれのアイドル観を更新されることを、そして未来のアイドル現象を担っていかれることを願います。