吉川友映画から考えるアイドルのリアリティと身体性

吉川友主演映画「きっかけはYOU!」の東京における上映は終了した。自分は初日4/29と5/7の2回見たわけだが、遅まきながら振り返ってみたい。
すでに以下のエントリにおいて主要な問題提起はなされているため、まずは以下を読まれることをお勧めします。
1.「きっかけはYOU!/吉川友吉川友であるということ」http://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20110430
2.「ドキュメンタリーの反転としてのフィクション」http://katzki.blog65.fc2.com/blog-entry-85.html


さて、映画をご覧になった方はお分かりの通り、本作品においては現実と虚構を構成する層が何重にも折り重なっており、そのことで「現実⇔虚構」の二項対立を失効させ、一方でリアリティという言葉について考えさせることにもなる。
つまり、それがつくりごとかどうかということと独立に、それにリアリティがあるかどうか、ということを問題にしたくなる。上記エントリでも指摘されているように、「このシーンはきっかの<リアル>を描いているはずだけど、俺らが知ってるきっかはこういう言動はしないよな」(上記エントリ1)と問うことができる。具体的には、それは映画内で吉川友が「超絶難しい」振り付けを練習する際に、「絶対できないです、きっか」と弱音を吐くシーンだ。ハロプロエッグからの下積み時代に鍛えられてきた吉川がそんなこと言うだろうか、と多くのファンなら思うだろう。
一方で、特に吉川友を知らない人間がこの映画を見た際、そのシーンは違和感なく受け入れられるかもしれない。なぜならそこでは吉川がどんな人間か、どういう経緯でソロデビューに至ったかという情報はなく、「少女がいきなり難しい振り付けをしろと言われたら普通どうなるか」という判断のもとでリアリティが感じられていくからだ。その点を考えると、この振り付けのシーンは、映画を見る人間の多くが吉川のことを知らないという前提で作られているのかもしれない。しかし(残念ながら)、映画を見たのは多くがハロプロファンであった。


リアリティが我々の経験・知識によって成り立っていくということを感じた別の例を挙げてみたい。それは「焼肉酒家えびす」社長の会見である。
【ユッケ食中毒】 社長の態度がここ数日で変わりすぎと話題に http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52456899.html (サイト内の動画がいくつか閲覧できなくなっていますが)
このサイトが言いたいことは「テンション変わりすぎワロタ」だろうが、この動画について「演技だろ」というコメントが多く寄せられることに注目したい。ここでの演技だろ、は要するにリアリティがない、本心でしゃべっているように見えないということであろう。5/2の「逆切れ会見」は本音で、5/4の謝罪は演技であるという判断はどこからくるのだろうか。いや別にその判断が誤りだと言いたいのではない。確かに、5/4に謝罪は、「何か変」に見える。ただそれでも、多くの人々がそれを「本音」、「演技」と確信できるメカニズムが気になるのだ。下手すると、ここでの本音、演技の根本的な判断基準が、「怒っているから本音」、「謝罪しているから演技」となってしまっている恐れもあるのではないか。これをアイドルで言えば、「アイドルの笑顔は演技」で、「なにかちょっとした隙に嫌な顔をしたのが本音」というようなことになるかもしれない。



こうして見てくると、リアリティは、現実を忠実に再現すること(これは厳密には不可能だが)によるのではなく、我々のそれぞれの観念上の「もっともらしさ」をなぞることによって生み出されるように思えてくる。心から謝罪をしていても、それに演技臭がしてしまうならば、それはリアルではないのだ。また「アイドルの笑顔は本心ではない」と思う者にとっては、いつまでもアイドルのそれはリアルにはなり得ない。すると、見るものにリアリティを感じさせるためには、見るものの「もっともらしさ」に沿うという「演技」が必要ということになる(本当はできるけど、少しは失敗した方がアイドルっぽい、というように)。このようなわけで、リアリティを感じさせるために、演技という虚構が必須条件となってくる。
「リアリティ」という言葉はしばしば「現実」を偽装するが、以上のようになにが受け手にとってのもっともらしさかによって、「リアリティ」は極めて流動的な現れをする。そしてその不確かなものをうまくあやつれたときに、たとえばアイドル現象は大きな盛り上がりを見せることだろう。こうしたことを改めて考えさせてくれる映画であったように思う。



ここでひとつ悪い例を挙げる。AKBN0というアイドルグループの運営スタッフは、リアリティを「現実の忠実な再現性」と捉えているがゆえの困難を抱えているような気がするのだ。このグループは、公式サイトで「アイドル運営の内部事情も公表していきます。筋書きのないドキュメントドラマをお楽しみください。」と書かれているように割となんでも公表してしまう。たとえばあるメンバーが他のアイドルグループに入りたいとかオーディションを受けたいという意志があるという情報も平気でオープンにする。
先日、AKBN0の桜木アリスももというメンバーが引退した。以下はAKBN0公式ブログhttp://ameblo.jp/akbn0/ の4月30日の記事からの抜粋。


「事の発端は先週の玉川区民会館でのランダム抽選会でした。
このとき、ももの玉が中々出なかったので、母親が「ももの玉は入っていますか?」と聞いてきました。
箱の中を確認するとももの玉は入っておりました。
このエピソードを翌日の公式ブログに書いたところ、ももと父親から抗議が来ました。
そのとき、こちらの意図するものともも側の考えに隔たりがありましたので、話し合いの末、会社側は謝罪し、文章を修正いたしました。
しかし、その20分後、ももと母親から「今日で引退します。今後のレッスン、イベントには出ません。」という連絡が入りました。
翌日、引退の気持ちは変わらないのか確認しましたが、変わらないということでした。」


アイドルグループに我々が求めるであろうリアリティ(についての自分のイメージ)と上記の経緯にはかなり乖離があると自分には思える。「リアリティ」とか「ガチ」というものを、現実にあったことを極力再現・表現しようとすることと同等に見なしてはまずいのではないかと思う。(ここでさらに、上記の運営の対応が、現実の忠実な再現を意図していると私(筆者)が判断できる根拠は何か、と問うこともできる。この問題は難しい。少なくとも受け手(ファン)の欲望を取り込んだ対応をしていないという点で、「もっともらしさ」とは相容れない対応だと譲歩的な言い方にとどめておこうか。)



もちろん、アイドル現象は「もっともらしさ」のある物語を巧妙に創り上げることに腐心することだけでうまくいくとは言えない。映画内においては、しばしば過度に物語化することの危うさをほのめかすシーンがある。たとえば、吉川友が同じユニバーサルJ所属のぱすぽ☆と交流したあとで、「(以前所属していた)ハロプロエッグを思い出しちゃって…」と言った時、吉川を売り出すべく奮闘するスタッフは、「つまり、グループからソロになったことを実感した…」と物語を紡ぎはじめるのだが、その反応に吉川は困惑する。
アイドルはもっともらしい物語とともに、意味の介在しないアイドルの存在そのものの魅力も重要な要素となる。この映画では、映画後半になるにつれ、吉川の表情を大きく映すシーンが多くなるように思える(これは思い込みかもしれない)。レッスン着姿で涙を流すシーン、終盤、ファンでもある音声スタッフに向かって(これは映画を見ている観客に向かっての言葉にもなっている)お礼を述べるシーンあたりは、吉川友という素材そのものの魅力をよく伝えているように思う。とてもいい表情をする。そこには物語はない。
話が多少脱線するようだが、アイドルの顔の整形(疑惑)に対して過度に嫌悪感を抱く人が多いように思われるのは、アイドルが「好意」や「愛」という非合理的な感情で成り立っている現象であり、その感情の少なくない根拠がアイドルの顔にある時、その非合理的な(超越的な)ことを人為的にコントロールされたくない、ということによるのではないか。アイドルの顔が好きという時、そのアイドルの顔が作られたものだと知らされると、そこに何の超越性も見出せなくなる。我々は「アイドル」でなくたって、「愛」をめぐっては「運命」といういわくいいがたいものを根拠にしたいものだ。ともかく我々は「なぜかそのアイドルを好きになった」と言いたいのだ(もちろん後付けでいくらでもそれなりの理由はつけられる)。それは運命とか奇跡とか言って済ませたい。「その顔が丁度自分が一番好む顔としてデザインされたから好きなのだ」と言いたくないのだ。
話を戻そう。過度に物語化がなされやすいアイドル現象の中で、超越性(不作為性・非合理性)を担保するのは主にアイドルの身体である。その点で、吉川映画は、前半の過度の物語化から、後半になるにしたがいアイドルの身体そのものへと焦点がシフトしていく作品なのだと言えなくもない。最終的には、スタッフの作り上げた「物語」は置いておいて、吉川はデビューイベントで精一杯踊ることになる。実際に吉川が映画館のステージ上で生で歌とダンスを披露するとき、それまでの物語性とは独立に、それそのものの魅力がある。
ここまでをまとめれば、アイドルにおいて、もっともらしさというリアリティのある「物語」の魅力という側面と、アイドル身体の非合理的(非言語的)な魅力という2つの魅力があるかもしれないという話である。しかし、これらは独立しているわけではない。吉川がその身体的魅力をもって、精一杯踊るというシーンは、映画内のスタッフが作り上げた物語を拒絶してはいるものの、結局「精一杯踊るひたむきなアイドル」という別の物語が発生している。アイドルの身体は、常になにかしらの物語を紡いでしまう。しかしこれをポジティブにとらえるなら、アイドルはその身体によって、常に新たにもっともらしさ(リアリティ)の基準を更新し続ける存在、ということができるかもしれない。実際、吉川はミニライブ終演後のMCにて、精一杯の営業努力と、「もう逃げられません」というファンに言っているのか自分自身に言っているのか分からない台詞で「ひたむきさ」を感じさせたのだ。
皮肉なことに、吉川の映画は集客に成功したとはいいがたい。初日は満席だったものの、5月7日の上映では、実質前半分しか入っていなかった。映画内で紡がれた、サイトへのアクセス数の不振、CD予約数の不調という物語を追いかけるように、現実は厳しい。しかし、映画内(そしてミニライブ)で吉川が、既存の(陳腐な)物語を凌駕する身体性を見せたように、これからの吉川がその身体の躍動によって新たな物語を紡いでいくことを夢想すること。それがアイドルへのアイドルファンからの正しい視線と言いたいところだ。