うらわ美術館「これは本ではない」展

前々より楽しみにしていた、うらわ美術館の展覧会「これは本ではない―ブック・アートの広がり」が本日より始まるということで、朝10時の開館に合わせて入場。
http://www.uam.urawa.saitama.jp/tenran.htm



自分はアイドル論を扱った同人誌(『アイドル領域』という名です)の編集をしているが、それというのは「アイドル」と「本(出版)」の二つに携わることに他ならない。そしてこの二つはメディアという観点から共通点が多い。特に時代的なことを言うならば、「それ、二次元でいいんじゃね?」という力に晒されていること。二次元アイドルやら、電子書籍やら。
本もアイドルも、果たして二次元でいいのか。それで事足りるのか。短絡的な、単純化された議論に陥ることなく、本やアイドルの「身体性」について考えることが必要ではないかと思える。そこで私は、アイドルについては『アイドル領域Vol.2』にて、「アイドルと身体」という特集を組んだ。(ご興味のある方は12/5の文学フリマ【ブース:V-06 サークル名:ムスメラウンジ】にお越し下さい。)本展覧会が、そうした問題意識と重なるものではないかと、とても楽しみだった。
展覧会のサイトの紹介文の一部を引用する。「…本が、人間の記憶や思考を外在化したものであるとすれば、本は姿を変えた人間のたとえであるとも言えるでしょう。…」これはアイドルも同じ。前から言ってきたが、「アイドルは人間の比喩」だ。我々の時代精神やら、欲望やらの写し鏡としてのアイドル。であるならば、「二次元でいいんじゃね?」という問いかけはそのまま、我々人間の身体性への問いかけにもなっている可能性がある。我々もまた、「二次元でいい」のだろうか。ネットワーク上の身体としてのアバターなど、そうした可能性のひとつの表れではあるのだろう。しかし、我々の身体が三次元のものとして「いま・ここ」性から逃れがたいこともまた事実である。この惑いに対して、「本」について見ることで改めて照射できるのでないか。そんな期待も込めながら、展覧会に向かった。


展覧会の名である「これは本ではない」は柏原えつとむ氏の作品名から来ている。「これは本ではない」という作品名は、マグリットの「これはパイプではない(Ceci n'est pas une pipe.)」からきているのだろう。作品説明(一生懸命メモしてきた)から引用する。「…20世紀美術の先鋭が「美術であること」自体を自己言及的に問いかけていたのと同じように、この本の中でも本が「本であること」自体について問いかけ、その回答自体がさらに次の問いを誘発するかのように、問答は延々と繰り返される。…」 実際に本作品では、あるページには本の絵が印刷され、あるページには辞書の「本」の説明の部分が印刷され、またあるページには「“これは本である”という本である」という文言が印刷され、というように、徹底的に自己言及的な本になっている。
今、「本」とは何か、ということがアクチュアルな問題となっている。簡単に言えば、電子書籍は本であるのかどうか、ということだし、コンビニに置いてある、もはや付録の方が主役となっている女性向け雑誌について考えてもよい。メディアが新しい潮流に晒される時、常にその定義をめぐって論争が巻き起こる。
アイドルもまたしかりである。例えば「Perfumeはアイドルか?」という問いでもよい。あるいは「アイドルは〜ものだ」という定義の問題でもよい。アイドルもまた、「アイドルとは何か」ということを常に問い/問われ、それを戦略として利用しながら存在している、自己言及的な性格を強く持った現象なのだ。(ちなみに来年刊行予定の『アイドル領域Vol.3』では「自己言及」を特集とする予定です。)


さて、他の作品も見ていこう。八木一夫、三島喜美代、荒木高子は、本と陶を結びつける。特に三島の作品が強烈に印象に残る。「20世紀の記録―2010」という作品は、レンガのような大きさの陶の一つ一つに20世紀の様々な時期の新聞記事を転写して、その陶を広いスペースに隙間なく並べた壮大なものだ。
その他、本を焼いたり、金属で本を作ったり、本で塔を作ったり、水に本を浮かべたりと、「本」に徹底的に揺さぶりをかけるアーティストたち。その中の一人、福本浩子の言葉。「私は自らの作品で、<情報>が観念的なものにとどまらず、具体的なかたちや質感・量感をもつ<場>として存在していることを表したいと考えている。」 そう、これらのアーティストたちは徹底的に「本」の身体性を問うている。「本」が身体性を持ち、歴史を身に引き受け、いずれは朽ちていくということ。また、その身体性という側面において我々に何かを伝えるということ(「メディアはメッセージである」)。そうしたことに焦点をあてる。


カン・アイランの作品は、LEDライトを内蔵した光る本である。作品によっては、書面に文字が映写され流れていくような作品もあり、電子書籍を思わせる。本の形をした「光る本」を見ていると、いずれ「電子書籍」という言葉がなくなり、二次元も三次元もないような本のあり方が到来する、そんな予感がする。


いずれにしても、「本」は「物」だということ。重量があり、歴史を持ち、物理的な影響を受け、変化し朽ちていく物。電子書籍ならそれはないか。いや、それでもその画面を映し出す機器の身体が存在することからは逃れられない。我々が「本」を読む(見る)時、そこでは我々の身体と、「本」の身体が呼応する。どのような姿勢で、どのような距離で、どのような心持ちで「本」と対峙するか。そうした我々の身体の反映として、「本」はあり続けるのだろう。