ディア・ドクター

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人間の不合理。一貫性のなさ。
山村で医者として住民から尊敬を集める男。しかし、彼は医師免許のないニセ医者だった。ある出来事をきっかけに、彼は村を逃げ出してしまう。ただそれだけと言えばそれだけの話だ。けれども、これは人と人との関係性について、示唆に富む映画だ。
人は医者に自分の身体を、生命を預ける。だから、その預け先であるところの医者が信頼に足る存在であるかは重要なことだ。その医者が専門的知識のないニセ医者ならどうなるか。しかし、その村は無医村であったため、彼にしか頼ることができないのだ。
ニセ医者は、ごまかしごまかし診療を続ける。すると、村人が崇めるようになり、ますます仕事が増える。抜け出せなくなる。看護士や研修医は、彼が本当の医者ではないと薄々気づきながらも、ニセ医者を立派な医者として祭り上げるゲームに一役買ってしまう。
誰も悪人ではないように思われる。だが、ある老人の病気の診断をめぐって、化けの皮が剥がれる。剥がれるというよりは、彼は医者としての仮面を、自ら脱ぐのだ。


人を信頼するということは、その人にレッテルを貼ること。こうであると決めつけること。医療従事者、教育関係者、そしてアイドルも、「それが誰であるか」という人称性が絶対に重要であるように思われる。その人の人格そのものがサービスの一部になってしまっているような仕事。マックの店員は機械で代替できる(スマイルにアイドル性を求めている人を除いて)が、上記の職業は「人間」であることを求められている。(「人間」とするのは、必ずしもそれが生身の人間である必要がないからだ。例えば初音ミクは生身の人間ではないが、その存在について人称性を認めることは十分に議論の余地がある問題であろうと思われる。)
そうした、信頼をし、またその信頼に応える構造は一見美しい。しかし、この映画ではそれに対して、一切センチメンタルな視線を投げかけない。医者とグルだった製薬会社の医薬情報担当者の男は、警察から事情を聞かれている最中、突如気絶したかのように後ろに倒れこんでしまう。それに対して思わず体を支えにいってしまった警察官に彼は、ニセ医者がやったこともそのようなものだ、と答える。金のためでも、愛などというものでもなく、目の前で倒れそうになる人に衝動的に手を差し出すようなもの。それが積み重なって、信頼されてしまって、抜け出せなくなるということ。乗りかかった船が陸から遠く離れ、もう後戻りできなくなる。乗客は彼を船長だと、操船する能力があるのだと思い込み、その共同幻想こそが彼を船長たらしめる。
でも、 人間なんてものは、基本的にそうだ。新入社員は実力よりも先に肩書きが与えられ、仕事をこなすうちに、肩書きに見合うだけの力を身につける。みんなが仮面をかぶり、それに見合うように内実の帳尻を合わせようとする。しかしその仮面にあまりにも見合わない現実があったとき、人は叱責を受け、また責任を取らされるのだ。多くの医者が、自分は安心して命を預けられるほど立派な医者だろうかと問い、多くの教師が、自分が他人の一生に影響を与えるような教育を生業にしてよいのかと問うことだろう。ただ、その仮面に内実を合わせようとする意欲・努力こそが人を成長させるとも言える。しかし一方で、その仮面があまりにも肥大しすぎたために、精神に不全を起こしてしまうこともまた、ある。


アイドルはどうだろうか。しばしば、彼ら、彼女らには肥大化した仮面が割り当てられてしまう。我々は「かわいい」と言い、彼女たちは自らが「かわいい」と思い、その「かわいい」という神輿が、アイドルを高いところへ高いところへと運んでいく。高いところへ運べば運ぶほど、神輿を担ぐ人数は増大する。増大する人数がまた、高みへと運んでいく。ところで、アイドルの仮面には基本的に内実がない。医者が持つような、社会制度が与える権威がない。したがって、アイドルの仮面は、アイドルと神輿の担ぎ手の共同幻想によって辛うじて保持し続けられる。けれども、それはその仮面があるきっかけによって容易に崩壊してしまうことも意味している。神輿から落ちるアイドルは、その位置が高ければ高いほど、当然落ち幅も大きい。大きい仮面ほど、剥がれた時に貶められ、完膚なきまでに破壊される。
我々(ぼく)はなんとなく、神輿を担いでいる。アイドルもなんとなく、担がれている。そんなところはあるだろう。アイドルにとって、それは金のためでもなく、ましてや愛なんてものでもないかもしれない。ただ単に、乗りかかった船が惰性で進んでいるということもあるかもしれない。それがもはや自分のしたいことだったのかどうか、能動なのか受動なのかわからないまま。けれども、それはそれで結構、降りづらいものでもある。
せめて神輿がアイドルを奈落へと導かないように、何かしらの舞台の上へと運ぶものでありますように。久住小春の動画を懐かしく見ながらそう思う。
…しかし、神輿を担ぐのに必死な我々は、神輿がどこに向かうかを、往々にして知らないままなのだ。