9月13日・真野恵里菜ファーストコンサートツアー「Introduction〜はじめての感動〜」

昼公演のみ参戦。2階席でゆったり。
実質1時間半に満たないライブに対してボリュームが無いとか、曲調の問題で物足りないとか、構成がどうとか、文句がいっぱい出るのはそれで理解できる。
それでも、個人的に、1回見る分には面白いライブだと思った。これで全国回る気はしないのだけれど。
曲数が少ないという条件の下でライブを構成していく難しさが明らかだった、その中で朗読劇や、加藤紀子とのMCでつなぐのはそんなもんだと思う。それを積極的に評価するなら、このライブは徹底的に真野恵里菜という存在に照準したのだ、ということができると思う。
歌もピアノもうまくなくて、ダンスがすごいわけでもなくて、じゃあぼくらは何を期待して東京厚生年金会館を満席にしているのか。それはもう、真野恵里菜というアイドルを見に来ているのだと、そういうことになる。ぼくらはその存在を見に来ている。
見なかった夜公演で、まのえりはピアノを失敗して泣き出してしまったという。ライブの形式的な側面に猛烈な批判が来ても、その失敗と涙には絶賛の嵐になる、という現象は、ぼくらが何を見に行っているのかという証明になる。
端的に言えば、ぼくらは作られていないものを見に行くのだ。コンサートという商品としてパッケージされたものの中に、それでも作られていない「真実」を探している。まのえりの涙が見られてよかったと語るヲタを、暴力的だと安易に非難することはできないだろう。おそらくまのえりのコンサートは、そうした「アイドル性」の発露に全面的に依存して構成されている(と同時に作り手ですらその発露の仕方をコントロールできない)。だから、我々はそう消費されるべきであるという方法で、まのえりのライブを満喫したということだ。
一方で、アイドルではないコンサートは、「作られたものを見に行く」という言い方ができるのではないかと思う。卓越した技能の発露としてのコンサート。ぼくが松浦亜弥のコンサートを楽しめなくなったのは、彼女のコンサートが、もはやアイドルのコンサートではなくなりつつある、ということを感じてしまったからだ。それはもちろん客観的にコンサートがつまらなくなったということではなくて、コンサートの基準が自分とずれてしまったということだ。
後者は、人間離れした技能によって人間を超越していくライブ。前者は、人間の意図を排したところに現れる超越性(「真実」?)を希求するライブ。もちろん多くのライブはこの二つが絡まり存するわけではあるが、アイドルのライブには前者の要素が必須だと言える。要するに、アイドルは「作品」ではなく「存在」であって、アイドルへの愛は「存在に対する愛」なのだ。だから、アイドルを好きな理由は、どうしたって論理性・普遍性を欠いている。