9月10日は℃-uteの日

先週のことですが、仕事の休みがうまいこと巡って来て、℃-uteの日に参戦することができました。
原宿の娯楽道が、しばらく見ないうちに店舗を拡大していて驚いた。


℃-uteの日に参戦できるのは今回が初めて。いつも平日夜は仕事の関係上できなかったのだ。
感想は以下の三つ。
①セットリストいいなあ
オールスタンディングで「行くZYX!FLY HIGH」の手の振りはきついけど楽しい。「美少女心理」も個人的にとても気に入っている曲なので久々に聞けてうれしい限り。「ディスコクイーン」「通学ベクトル」「夏DOKI リップスティック」「僕らの輝き」というセカンドアルバムの名曲も含め、最近歌っていない曲を初めに持ってきて、さらにインディーズ時代の4曲も歌うという、℃-uteのこれまでの歴史を十分に感じさせるセットリスト。


なっきぃが理解されている
なっきぃが中盤の寸劇で「中禅寺なき子」という演歌歌手(52歳)を演じる。方々で絶賛されているので内容については他を参照していただきたいのだが、ともかく言えるのは、なっきぃが(を)よく分かっている、ということだ。なっきぃは困らせてなんぼ、であると。努力して努力してそれでも報われなくて困った顔したり泣いたりする、そこにこそ「なっきぃ性」があると。そしてそれはアイドルとしての実際的な活動において、なっきぃがどう頑張っても愛理と舞美のツートップを越えることができない、という厳然とした事実としてあることにおいて強い説得性をもっている。そればかりか、まいまいに写真集で先を越されてしまうなっきぃ。しかしむしろこれは「なっきぃ性」の発露として、おいしいことだ、と捉えてもよい。
そうした自覚があるにしてもないにしても、「なき子」(「泣き子」と表記したいくらいだが、「無き子」など様々なニュアンスを含むためにはひらがな表記が適切であろう)をなっきぃは徹底的に報われない存在として見事に演じる。ほとんど、ヲタの側の二次創作的欲望をなぞるかのようにだ。見事すぎて、ただ面白いなあで済ませるにはもったいないほどの感動だった。
で、大仰に言えば、報われないものに対する「なっきぃ愛」こそ、弱くも強い人間に対する愛、「人間愛」である、と言い過ぎたい気もある。


℃-uteの歴史性
梅田も矢島も、MCの中で、意図的に「めぐ」と「かんな」の名を出した。2005年から(キッズということでは2002年から)続いてきた℃-uteの歴史を、つないだ。めぐとかんなを℃-uteの歴史の中にしっかりと位置づけてあげること。梅田が卒業を間近にするこのタイミング、そして℃-uteの日という℃-uteの歴史上重要である日に、そこをクリアにしたことが自分も含めた℃-uteヲタを深く納得させたし、またそれは℃-uteアイデンティティとか、同時にヲタのアイデンティティを規定してくれる儀式でもあった。
ずっと、「歴史」という言葉を使うことにいささかばかりのためらいがあった、アイドルグループに対して。「モーニング娘。」の歴史とか、℃-uteの歴史とか。けれども、それを「歴史」と言い切る強さが必要かもしれない。
イベント終了後、何かから解放されたかのように、「おつかんな」コールが大きく強く響いた。そして℃-uteの歴史は続く。


「たった10年そこそこの人生 それでも色々あったよ」(松浦亜弥・私のすごい方法)