クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!

なっきぃと似ているというクッキンアイドルについて書こうと思う。
顔が似ているのは間違いないが、もっとも「なっきぃ性」を感じるのは、このまいん役の福原遥が、全然口を閉じないということだ。


教育テレビの番組に出る子役がアイドルとして立ち現れることは、別に珍しいことではなかろうと思うが、いくつかの点において、アイドル現象に関して考えることを書こうと思う。


①実写とアニメのコラボ
ハロプロにおける「久住小春月島きらり」をはじめとするアイドルの声優化は、アニメとアイドルの、虚構という点においての親和性を示すものだ。ただ、この番組と、ハロプロにおけるアイドルの声優化のあり方は若干異なっている。久住小春月島きらりの関係性が、基本的にはモーニング娘。久住小春月島きらりを演じていることにおいて、月島きらり久住小春に従属するという縦の関係になっているのに対し(もちろん「おはスタ」等で実写においても久住は月島を名乗ることはあるにせよ、である)、クッキンアイドルにおいては、アニメと実写にそうした従属関係はない。どちらも等価に現れている。ハロプロで言えば、「ミニモニ。」は、その「ミニモニ。」のままアニメ化されたという点で、実写とアニメが対等に関係のように見えるという事例はあったが、しかしそれにしても、それはまずはじめに生身の「ミニモニ。」がブレークした後にアニメ化された、という前後関係が明らかである以上、完全に並列できるような事例ではない。つまり、クッキンアイドルは、はじめからアニメと実写が等価な関係性でアイドルを始めたという点で、ぼくは他に例を知らない興味深いアイドル現象だと思うのです(前例があれば教えてほしいです。)


②教育的であること
教育的であることにおいて重要だと思われるのは、健全であることだ。子供が見るものは、品のあるもので、見習うべきものでなくてはならず、よって、出演者は健康的で明朗快活でなければならない。加えて、見て楽しくなるような番組であるのが理想であろう。
このように考えた場合、教育テレビの出演者に求められることは、その多くがアイドルにおける条件と合致する。これは当たり前といえば当たり前かもしれないが、ただ思うのは、アイドルにおける信仰の問題と、教育というものの共通点についてである。つまり、どちらも、理屈の前に、形式的な側面におけるあらかじめの強力な説得を必要とするということだ。アイドルにおいては、それはアイドルがヴィジュアルがよくなければいけない(かわいいからいつの間にか好きになってしまった)、ということにおいて最もよく表れるし、教育においては、理屈を理解する能力がない子供に教育するには、実は理屈ではない部分にほとんど依存せざるをえないということを表す。すなわち、子供は自分勝手で、基本的に楽しいことしかやらない生き物であるため、うまく教育をするには、教育の形式を、子供が楽しいと思えるような形に設計するしかない。子供は楽しいと思ってやっているが、大人はその番組を教育的なものとしても設計しているので、子供は意図せずに自ら教育されていく、というわけだ。
これまでも書いてきたように、人の行動は多くが理性的ではない。それをコントロールするためにさまざまな制度・システムをどう設計していくかというのは興味深い問題だ。


③アイドルを発見するということ
当然の認識として、今はとうにアイドルの時代などではない。アイドルという語には、一般的に言えば負のイメージもまとわりついている。そんな中でも、アイドルは多く存在するように思われる。われわれは、アイドルとして設計されたアイドルよりむしろ、アイドルではないものにアイドルを発見していっているのではないか、と思える。
クッキンアイドルでは、子供が視聴者として想定されており、「大きいお友達」の視聴者を基本的に想定して作っているわけではない(いやまあ、ファンがつくことは当然予想されているだろうが)。このように、本来的にアイドルファンに向けられていないものに対して、アイドルファンは(というか、日本人の多くは)、アイドルを発見していく。たとえばお天気お姉さんであったり、アナウンサーであったり、スポーツ選手であったり、政治家であったり。もちろんアナウンサーが局によってはほとんどアイドルとして初めから設計されているようなケースもあり、そうした設計と非設計のせめぎあいは常に起こっている。その中で、人は常に非設計のアイドルを求め、発見しようとしているような気がしてならない。その欲望の裏返しとして、「アイドルとしてのアイドル」の評価が低くなっているのではないかとすら考えてしまう。
クッキンアイドルにファンがつくのも、アイドルとして設計されていない(と思えた上での)その純粋さであったり、無垢なイメージをこそファンが愛でるからであろう。(ぼくにとっての難点をあげるなら、彼女は無垢さを感じるにはあまりに台詞回しがうまくて、手馴れた子役のように映ってしまうことだ。なっきぃのほうが、もっと台詞の中に無秩序が現れるだろう。それこそがアイドルの織り成す広大な宇宙空間なのだと思うのだが。)