ゲキハロ第6回公演 〜占いについて〜

℃-uteが出演するゲキハロは毎度、アイドルが出る意味を十分に感じさせてくれる。「寝る子はキュート」ではアイドルの実存に関して扱い、「携帯小説家」も同様にアイドルのありかた、そして現実⇔虚構を混沌とさせる深いテーマを扱う物語だった。
さて、今回の「あたるも八卦!?」である。今回のテーマは「占い」。そして、信じる⇔信じないということ。これはアイドル現象を見るにあたって外せないテーマだ。アイドル現象は、信じることによって成り立っている。逆に、信じないことで、もめる。


あらすじ:℃-ute演じる高校生の担任の教師が、占いにはまり、ある占い師の言いなりになって学校の先生をやめようとするのだが、生徒たちの説得でやめることを思いとどまる。


短くまとめると身も蓋もないのだが、考えさせられるのは「占い」とはなんだろうか、ということだ。また、占いが当たるとはどういうことか、という問いもある。
この劇でとても重要だと思われることは、℃-uteメンバーが演じる高校生が戯れに行う占いも含めて、劇中の占いは何かしらの形で当たる、あるいは、当たっているのか外れているのかわからないようになっている、または、少しずれた形で当たっている、という言い方が出来るようになっていることだ。一つずつ見ていきたい。
まずは、岡井(役名で書くとめんどいので本名で書いていきます)がUFOを呪文で呼ぶシーンだが、これは二度とも人を呼ぶことには成功している(一度目は舞美、二度目は担任の先生)。中島のタロット占いは、鈴木が「人に振り回される」という結果で、これは当たる。占い館の館長の占いは岡井と梅田の性格を当てる。岡井のダウジングは、たつ兄を呼び、また床下の水道管に反応していたのかもしれないし、さらに地図や、公園の地面に対してのダウジングは、人探しには役に立たなかったが、指輪を見つけることには成功する。最後のシーンの中島の占いは、サーシャという昔の人物が憑依したという設定で、体育教師の登場を見事に予言した。
ここでは、必ずしも占いが信用できるわけではないし、必ずしも全く当たらないわけではない、という点で、作り手は占いに対する判断を観客に完全にオープンな状態にしている。これはとてもよい。
実際、現実においても、占いが当たったのか当たらないのか、その判断というものはそれぞれの判断に委ねられる。当たったと言えば当たったのだし、当たらなかったと言えば当たらなかったのだ。これは当然アイドル現象と極めて似通っている。レスがきたと思えば来たのだし、無視されたと思えば無視されたのだ。ただし、そう信じる材料が多ければ多いほど信じやすくはなる。同じような占い結果をいろいろなところで聞けば信じやすくもなるし、レスらしきものを沢山確認すれば、好きなアイドルに好かれていると思いたくもなる。逆に言えば、そういった好ましい材料だけを集める、または悪い材料を意図的に封印できるような能力がある人は、その点においては幸福になれる(行き過ぎると妄想家のレッテルを貼られるけれども)。
さてそうした占いというものの不確かさを確認すると同時に、劇を見るうちに思ったのは、占いと通常のコミュニケーションというものの境界の曖昧さである。Wikipediaによれば、「占い(卜い、うらない)とは様々な方法で、人の心の内や運勢や未来など、直接観察することのできないものについて判断することや、その方法をいう。」とある。劇の中でも、手相占い、タロット、舞踏占いなどいろいろと出てくるが、改めて気づいたのは、占いは人の過去を言い当てるものや、性格を言い当てるものや、未来を予言するものなどいろいろあって、要は科学的でない、合理的でない判断すべてが占いと呼びうるものなのだ、ということだ。
岡井は「わかるなあ、なんとなく」というような不確かな言明を何度もするのだが、こうした推量というものを我々は常に行っている。あるいは、誰々は誰々のことが好きなのではないか、といった恋愛に関する噂話を見てもよい。もっと言えば、人間が何かを判断するとき、むしろ確実に合理的に判断をする、というケースは少ないかもしれない。どこかに不確かさを抱えた上で判断をする、という点においては、何かに対する判断は、常に占いの要素を含んでいると、そういっても差し支えはないのかもしれない。


●売るという占い
劇中には「幸運を呼ぶブレスレッド」というようなものも出てくるが、このようなあからさまな品でなくとも、いまや商品を売るということが、よほどのありきたりな生活必需品でない限りは、占いの様相を帯びているということもできるだろう。どのような雑誌を見ても、「こうすれば幸せになれる」式の広告は枚挙に暇がない。また「anan」を典型とする情報誌というものは、幸せの手に入れ方のマニュアルを、行動指針を提供している(…さし当たって次号が出るまでの短期的なものかもしれないが)。劇中で占いにはまる教師の台詞として、「こわいんです。言われた通りにしないと、何が起きるか、こわい。」というのがあったが、情報化社会が、むしろ光がありすぎて何も見えないかのように人々に不透明な不安を与える中で、人は確かに自分の道を受動的に決められたがっているふしもある(これはぼくが仕事をしていて常々思うことだ)。
ところでぼくは、そんな情報誌には目もくれず、「℃-uteDVDマガジンを見れば自分は幸せになれる」という占いを信じている。
買うという行為は、その商品を含めた自分の未来の生活を信じる、ということだ。その未来が決して思ったとおりにならなくてもよい。買うその時点で、そう信じさせるだけの力が商品にあればいいのだ。ということで、基本的に人は商品の宣伝文句によって期待を煽られに煽られ、期待はずれに遭うことに疲れている。でもだからこそ、本当に期待に沿うものがあるのではないかと、よりいっそうなにかに依存しやすくなってしまうという悪循環はあるだろう。


●コミュニケーションという占い
「私の言うことと、占い師の言うこと、どっちを信じますか」という中島の台詞は、この劇の中でもきわめて重要なものである。これは「信じる」という現象を考えたときにもとても大事なテーマが扱われている。ここで問題になるのは、信じるというときに、その信じる対象の言明が信じられているのではなくて、その言明を為した人間が信じられているのだ、ということだ。
占いにはまる教師は、最後に、生徒たちによる占いを受けて、教師を辞めないことを決める。そのシーンがとても面白い。その際に生徒が行う占い、というか説得は、以下のようなものである。
「私は先生のことが大好きだから、先生は絶対にやめません。」
生徒個人の主観と占いを結び付けてしまうこのアクロバティックな振る舞いは、しかし、コミュニケーションというものの重要な性質をよく表している気がする。つまり、言明と、その言明が帰属する身体というものがあって、コミュニケーションの回路が初めて開かれる、ということがあるだろうということだ。ここで、だからネット上のコミュニケーションは不完全だなどと断定してしまうにはためらいがあるけれども、人はコミュニケーションをするにおいて、なにかしら身体性を求めてしまうのではないか、という問いは立てたくなる。
ともかく、教師は、生徒の身体に帰属する言葉の力によって、その占いを信じることになる。赤の他人ではなくて、他ならぬ生徒がやめないでと願い、その言葉を発したことによって、教師はそれを信じるのだ。
判断が難しいときにこそ、人間の身体性が重要になっている気がしている。例えばそれは恋愛であったり、高い買い物であったりする時だ。メールじゃいやで、声が聞きたくて、出来れば会って話がしたい。そうやって、我々は、重要な判断を、身体性に依拠して下していくのではないか。それが正しいかどうかは全く分からない。商売する側としては、直接会う方が間違いなく説得をしやすいのだから、むしろ、会うことそのものが信じている証拠となってしまったりもするだろう。けれども、それでも人は会うことで、相手の一挙手一投足に目を光らせることで、また自分の振る舞いにも注意をして、コミュニケーションをとろうとする。そういう点においては、それは、劇中に出てきた「舞踏占い」のごときものかもしれない。


●人生という占い
占いをすることを拒んで、「私は自分の未来は自分で創造したい」と劇の最後に矢島は言う。けれども、それは無理だと言える。どんな判断も、ありとあらゆる選択肢を精査する時間がない以上、どこか不合理的なものを含むという意味で、人生は占いだらけなのだ。しかし一方で、どの占いを信じるかということにおいて、自分の未来を創造する可能性は開かれている。どの占いを自分は選択するか。そうなると、結局は、どの占いを信じるかを選択する自分のことを信じられるかということにもなるだろう。「自分を信じて」という占いは巷にあふれているけれど、なかなかそれが難しいのかもしれない。「自分を信じて」という占いを信じる自分になるためには、そのまえにすでに自分をある程度信じられていなければならない気がする。となると、自分を信じられない人間が、自分を信じられる人間になるためには、そうしたただの言明ではない、身体性を伴ってその言明が響く奇跡的な体験が必要なんだろうなあと思う。
なんか別に難しいこと書きたいんじゃなくて、ただ、℃-uteのライブにいくと、「生きててよかった」ということが体で理解できるというような、そんなことです。