アイドルが何を歌うか

江戸の手毬唄II

江戸の手毬唄II

江戸の手毬唄Ⅱ」、ドアップでPV。
衣装と陰影のつき方が「恋レボ」のジャケ写を思わせる。↓
恋愛レボリューション21

恋愛レボリューション21

さて、まあ、「モンキーダンス」と同様、賛否両論のある本曲である。
手放しで支持を表明すれば、結局なんでもいいんでしょ、というそしりを受けるし、
おいおいこれはないだろ、と言うと、まったくもって生産性がない停滞が待っている気も。
そしてまた、「モンキーダンス」と同じように、PVを見た後でまた評価が動くこととか。


僕は、アイドルが何を歌うか、ということに思いをはせる。
僕は、アイドルが、まあ少なくとも℃-uteが、恋愛を歌ってもしょうがない、と思っている。いつも恋愛を歌っているようじゃ、興ざめだと思ってしまう。だったら、あえて欺瞞的に世界平和万歳、とか、日本万歳とか、ご飯万歳になったって、そのほうがマシだと考えているし、もう少し言えば、それが意図的に欺瞞を演じることで欺瞞をひっくり返せるような気もしている。
あるいは、歌詞世界とアイドルイメージの乖離をあえて楽しむ。例えば今回の℃-uteの曲、明らかにメンバーは意味が良く分からないで歌っていると思うが、それによるギャップを楽しむ。かわいい少女の表象と、歌詞世界(例えば「犬の糞」とか)とのギャップ、またちょっとおかしな振りをさせることによるおかしみ。
そこらへんはまさにハロプロの王道の手法だ。「ラブマ」における「恋のインフレーション」から、℃-uteわっきゃない(Z)」における「相乗効果でライバルいっぱい ストップ高」まで。本人たちがよく分かっていない言葉を歌わせる、そのことがアイドル世界を多層的にする。解釈を一定にしない。様々な視点からメタにベタに語る対象にさせる。
だから、何を歌うかということに関しては、僕は「恋」ではない何かを歌えばよいと思う。恋を歌われると、恋が彼女達にとって自然なことであるがゆえに、彼女たちがアイドルであることと人間であることを貼り付けてしまうような気がする。大げさに言えば、恋を歌うことによって彼女たちはアイドルであることの危機を迎えてしまうような気がしてしまうのだ。アイドルである彼女達は、恋を歌うことで、普通の少女であるという定義づけを自ら行ってしまう。すると、アイドルとしての権威が落ちるか、または、アイドルイメージと彼女自身の実存を同一視して苦しむ、というような状態に陥る、のではないのかなあ。


でも、でも、恋の歌も歌うのだ、アイドルは。それはそれで仕方ないし、それも必要な気がする。今、なんで「必要」と思うのか自分でも説明できない。
胸のところでハートを作って、「恋の執念おそろしや〜」と歌うなっきぃにドッキリしている自分をとりあえず名古屋で見つめなおしてくる。