3-2.アイドルをどう信じるか 〜「現実」への偏重〜

先日、加護亜依が香港で喫煙したことを告白した。そのこと自体に議論が起こるのは当然として、彼女の言い分が気になる。
『嘘つきになるのが嫌だから』http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/55389/full/
嘘つきとは、なかったことをあるように「語ること」であって、嘘をつきたくなければ黙っていればいいのである。黙っていることすら嘘つきだと考え、なんでもさらけ出さなければいけないという強迫観念があるとすれば、それは病的ではないかと思われる。
例えばマンガ・アニメのヒーローはトイレに行かないが、それは嘘ではない。ただ、そういうシーンがないというだけである。もしそれが虚構に寄り過ぎた例なら、では女性のお化粧はどうなのか。女性の化粧を嘘だと言う人間は、それは野暮というものだ。すっぴんこそが女性の真実であると言いたい人間は、いずれ「服を着ることは嘘である、みんな裸になれ」とまで言い出すに違いない。
身体性が厳然と立ち現れるレベルとしての「現実」と、記号性が主に問題となる「虚構」と対置させて「虚構―現実」という二項対立を仮に導入するとして、「現実」こそが「真実」だとする、「現実」への偏重が過剰に見られる。アイドルが整形をしているのかしていないのかという議論がある程度の盛り上がりを見せるのも、鳥居みゆきの「素」をえぐり出そうとする番組の暴力もそうだ。(ところで「真実」という語の説明が難しい。人間が認識や行動の準拠点とするところのもの、信仰のよりどころ、とか。うーん、難しい。)
僕は加護がまた過誤を繰り返しそうだ、と書いた(参照 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080409/1207772167)。その通りになっている気がする。なんでも「現実」をさらけ出さなければ、嘘である。さらけ出したほうが「いい」のだと加護は考える。しかし、誰にとって「いい」のだ?ファンのためではないだろう。僕は残念だが、これは加護の甘えではないかと思う。「これだけさらけ出して、それでも私を愛してくれますか」という甘えでしかない。ファンとのギブアンドテイクの領域をはみ出しすぎて、一方的に愛を求めている気がしないではない。「本当に私を愛してくれるのは誰なの」と探す行為の危さ。ファンにしてみれば、知りたくないことをわざわざ知らされたくはない。もちろん、その重さに耐える愛を持ち合わせるファンはいるだろう。だけれども、多くの場合ファンはそんな重さのレベルで応援しているわけではない。気楽に応援したいことだって多いのだ。そんな中で、常に「現実」のレベルで受け止めよ、と言われるようで、面倒くさい。
隠すべきことは隠すべきだ、と思う。喫煙もトイレの中もプライベートの行動も、そんなところからアイドルやらタレントの「真実」など別に浮かび上がってきやしないのだ、ということに気づかなければならない。
我々はどのレベルで「真実」を感じているのか。物の本質を求めようとして、素粒子物理学を学んだとして、あるいは、マクロのレベルで宇宙物理学を学んだとしても、それでは我々の日常の「真実」はなにも動き出さない。
だいぶ脱線をしてしまった。「スミレ16歳!!」の話に戻らなければならない。