舞美の写真集が置いてない

矢島舞美写真集『爽・空 (そうそら)』(DVD付)

矢島舞美写真集『爽・空 (そうそら)』(DVD付)

せっかく仕事の合間に本屋に寄っても、舞美の写真集が置いてないのである。
「アイドル」と掲げられたコーナーにスーツとカバンで猛然と早歩きしていっても、そこにあるのは「Moecco」やら「Chu-boh」といったさらにマニアックな雑誌ばかり。なんだそれは。なんで舞美を置かないのだ。
早く買いたいのだ。舞美の写真集を早く買いたいのだ。舞美を早く買いたいのだ。
しかしながら舞美はお金で買えないのである。たぶんそういうことなのだ。だからどこにも置いてないよ。
美しさが金で買えると思ったら大間違いだよ。舞美の美しさは金銭と交換できるもんじゃないよ。
それにしても、ハロ紺での舞美の笑顔力はなっちに匹敵した。これは大げさでない。舞美の笑顔力は別になっちと並ぶことによってなっちと比されるのではない。むしろ舞美の笑顔力がなっちに匹敵するからこそ安倍舞美というユニットが組まれたのだ。
僕はともかく、「舞美に負ける」という言い方なのである。アイドルを好きになる、という範疇を超えた形で惹かれる事態が恐ろしくて仕方ない。これは「萌え」というのではない。やはり恋の恐怖だ。萌えは「故意」と言うことができるが、「恋」は「故意」ではない。圧倒的に受動なのである。抗えない。例えば「なっちは天使」という名言の根拠を、ここから考えてみてもよいだろうか。超越的存在にただひれ伏す、好きにならざるを得ない、もはやそれはこちらからどう、ではなくて、否応なく好きにならされているということだ。
舞美の写真集を手に入れたら、僕はもっと舞美が好きになってしまうだろう。しょうがない。その笑顔を信じざるを得ないのである。信じないということができようか、いやできない。
昨年の舞台「寝る子は℃-ute」で、僕の解釈では、舞美は理想的なアイドルの潔癖さを捨てた結果、最後に「虚言癖」を持たされてしまう。確かにアイドルは、嘘をうまいこと美しく見せなくてはいけない職業なのだ。
僕はその写真集を信じるだろう。その美しさに、その澄み切った青空のような爽やかさにただ嘆息するのみだろう。「爽・空(そうそら)」とは、まさに舞美のイメージを体現していると思う。空の爽やかさには表層的にさらさらと流されそうになるけれども、ただ同時に、「空を使う」とはうそをつくことである。世の中は複雑なるもの。爽やかな、すっきりすっぱりしたものには時に嘘が含まれる。
「そうそら」というタイトルには、「爽」やら「空」の清涼感もあれば、「うそ」やら「空」の虚構感も実は含まれている。しかし僕はそれすら信じている、という言い方すらしたいようである。「うそ」は本当とは両立し得ないだろうか?…何を言っているか分からない。