目に見えない力

やはり「元気+」はライブの始まりとしては最適。ライブの空間をつくってくれます。「ハッピー☆彡」の「ハッピー力」は尋常でない。キラキラしている。そういうのを多分スター性と言うのだ。
「未来の太陽」は名曲だと思っている。「クラスで一番なことが 一つでも もしあるなら 世界一に成れるかも しれないよ」という短絡のすばらしさ。「大好きな漢字を 紙に書いてみましょう」はいつも気になる。なにか特定の漢字を想定して書かれているのだろうか。そしてここで「文字」でなくて「漢字」っていうことの意味。…んー、「辻」かな。「去年と同じようだけど おんなじわけはないのさ」ここらへんは「I WISH」風味。
さて、「青空トレイン」だが。我が4階席も美貴様の命令によって、通路はさんで右隣の「いい汗」とやらを存分にかいたTシャツに手をかけぎこちなく進む。すると左隣の陰気なヲタも車両をつなげようと必死に手を伸ばしてくる。なんだこの力。眼下には異様なまでのヲタの鎖、横一線。ここまでつながるか。見事という言葉ではない。異様だ。気持ち悪い狂気。たった15秒であるけれども、早く終われなのか、短すぎるのかよく分からん。それを真っ只中で感じるためにSSAはアリーナ席を買ったわけです。クセのあるものほど癖になると怖いんだろーな。
4階席という距離の効果で、1階席の向こうにステージを見るせいで、バラエティ番組の構造みたいに、「見ている者を見る」というメタ的な視線をもってはじめはライブを見ていた。でも結局は「青空トレイン」に至って「すべてが一つ」になってしまう。引き込まれる。そういうのが実は心地いい。
アンコール中、新垣のちょうちんやらボードがスクリーンに映し出される。「ここいる」が終わって追い出し曲のハピサマがかかってから、新垣がもう一度戻ってくる。泣きながら言う。「目に見えない力も、目に見える力もいっぱいもらいました」と。僕は新垣がモーニング娘。だと思った。と言いつつ、OADもほんとは打ちたかったなあとか思うどうしようもない自分も同居。


高橋が捻挫をして、昼公演を途中で退場した。そして、夜公演の「シャニムニ」から合流。歩くのもままならない状況だが、歌うことに支障はなく、音符型のセットに座って歌う。こういう時に、「プロだなすげーな」の視線になるのか、「心配だな大丈夫かな」になるか。しかし僕はそこまで入り込めず、ヲタの必死な声援を見てそれが創りだす感動的な空間に感心した。「歩いてる」で高橋が泣き、新垣も泣いた。
僕には疑問が湧いてしまう。ライブという現場において、「アイドル」「人間」というものはどのように交錯しているのか。東浩紀の言う「コンテンツ志向メディア」「コミュニケーション志向メディア」という語とも絡めて考えていきたい。単なる見せ物的側面と、我々自身が参与していく側面。 http://d.hatena.ne.jp/eal/20070421/p1 ←この問題意識ともかぶるのかな。どうなんでしょう。メディア現象であるアイドルと無媒介的に接する場としてのライブ。「生(なま)のアイドル」について、僕は6年間一体どう考えてきたんだろうか。