悪そうだが、いいニュース

http://www.up-front-works.jp/discography/piccolotown/04/s_07/disco_photo.jpg
美勇伝愛すクリームとMyプリン」のジャケ写が出ました。
これを見たときに、http://www.machineworks.co.uk/whg/2006/11/post_3341.html のように、「やりすぎを通り越してる」と言ったり、「終わったな」とか思うのって、「ハロプロリテラシー」なるものが欠けてるんじゃないかなんて思ってしまいます。
「古来の日本の美しさと今の時代の力強さをあわせもつユニットとして結成された」という建て前があって、でもヲタ向けにしなきゃいけない本音があって、っていう諸々の事情がとっても面白いのであって、そういう距離感をもって美勇伝を享受していくのが適切なんではないかと、僕は思っています。もちろん人のスタンスにケチをつけるつもりは毛頭ないのだけれども、一目見て「うわー」と思えるのって、少なくとも「広告」という意味で捉えるなら大成功ですよね。そういう面白みを感じるのも、ヲタの楽しみだと思うのですが。
「一切合切」の時には「今回は、日本における高度成長期時代の軽やかでノビノビとし、国際的にもたくましくなっていった日本女性の美しさを表現しています。」などという「事情説明」があったので、今回もなんかそういうの考えてほしいのですが、多分無理でしょう。
今回バニーガールに行った時点で、前曲までかろうじて残っていた建て前が完全に崩れてしまったわけですが、これって悪いですか?この建て前の終わりって、ヲタ的には全く終わりでもなんでもないと思うんだけどなあ。今まで買う気がしなかったCD、今回だけは買ってもいいと思う自分は天邪鬼なのだろうか?
ハロ紺での美勇伝はいただけなかったけれども、このジャケ写のようにエロスを量ではなく質で勝負していくことってのはアイドルが自らの権威を維持していくために重要なことだと思う。どんどん脱いでいって裸でおしまい、という量での勝負は無理なんだから、エロスを受容する側で管理して、露出量ではなく、質で勝負させていく。そういう萌え志向っていうのは、実はアイドルを滅びさせないための作法であるし、倫理っていう言い方もできるの☆カナ
まだ整理つきませんが、萌え→倫理の一つの可能性を感じています。