アイドルの権威

http://d.hatena.ne.jp/Moon-Rider/20060902
http://www.geocities.jp/tkmoshin/ あたりで示されている今回の「リボンの騎士」へのネガティブな評価。結局それは、アイドルとは何か、という問いとともに、我々が何であるかという問題と絡むものなのだと思う。
我々が厳然としてアイドルファン(ヲタ)であるということ。
それが今回のミュージカルに素直に賛辞を贈らせてくれない。

『無論、素晴らしい作品を作り上げた、キャストとスタッフ諸氏に対して、なんら文句をつけるつもりはない。ただ、敷居は低いままでも全然構わなかったのだ。(中略)思わずおぉっと唸らされてしまう程に、本格的なミュージカルを、モーニング娘。の舞台に求めてはいない。今回のように、後々後遺症が残ってしまうほどに強烈な作品でなくとも、ある程度のところの精神状態で楽しめるもので十分なのである。ボクたちは、モーニング娘。が出ていれば、どのような類の作品であっても、それなりに楽しむ術を心得ているのだから。』(Moon-Rider氏)

『…なのになんで私はこんなモヤモヤすんのか。素直に絶賛してりゃいいのにさ。それは要するに高橋(=モーニング娘。)が演出家に影響を与えた部分ってのが感じられないってことなんです。
結局私が感じたこのミュージカルの方向性って、「アイドルを鍛えて宝塚式の舞台ができるようにしました」なんですね。だけどそれじゃあ宝塚歌劇団が演じるのがベストであって、モーニング娘。は次善策でしかない。モーニング娘。が参加するからこそのプラスαがなく、「アイドル」がマイナス要因にしか働いていないのです。「アイドルでもこれだけできるんだ」はあっても、「アイドルってこんなに素敵なんだ」はない。そういう思考が演出家のベースにあるからか、物販の宣伝だとか、客いじりだとか、ライブパートでの甘い観客統制だとか、「アイドル」の要素を取り込もうとした部分は総じて「どうせアイドルファンなんてこういうことしておけば喜ぶんだろ」的なネガティブな印象しか感じられませんでした。』(モー神通信。)


僕がミュージカルに行くにあたって抱いた懸念http://d.hatena.ne.jp/onoya/20060805というのも、やはりここらへんにあって、「本格」をやることによって「アイドル性」を感じることができないんじゃないかっていうこと。
娘という権威⇔宝塚
アイドルという影響力⇔演技という被拘束 みたいな対立関係。
結局、アイドルゆえの魅力の発露を見出せるかどうかということ。アイドルであらねばならない、アイドルが出演することの代替不可能性。アイドル先にありきで構成されたミュージカルであるか、それとも宝塚のミュージカルに沿うかたちにアイドルを仕上げていくか。
アイドルファンとして、娘。を何かしら権威だと思う我々にとって、娘。でなけりゃできないこと、という意味では、確かに今回の「リボンの騎士」に疑念を抱くのも無理ない気はするのだ。
ただ、観劇後に自分はこのミュージカルを絶賛した。
それってのは、僕が「アイドル高橋愛」のファンではないからかもしれない。役者である高橋愛、なんかもう、アイドルを超え出ていっちゃうような高橋愛に対して安心して見ていられるというのは、逆に言えば高橋がどこへいこうが構わないという態度でもある。それが推しである矢口だったり辻だったりしたらいやなんだ。例えば矢口が「演技に磨きをかけたい」と言うことはすごくいやだし、辻の今回のゲスト出演に関しては、確かに「松葉杖アイドル」としての権威は感じたけれども、辻がやらねばならない理由はどこに感じなかった、出なくてよいとさえ思った。

アイドルの権威というのがどこにあるのか。もちろんそれは我々の判断、主義によって様々に分かれる。ただ共通していえるのは、その娘じゃなきゃダメ、っていうこと。もちろん今回のミューでも、ヘケートとかフランツとか、適材適所でぴたり配役が決まっているということは言えるんだけど、それでも娘。の代替不可能性とまで言えたかどうか。
演出の木村信司がパンフレットの中で書いていたことは、「アイドルは人間」ということ。「よほどの例外を除き、生涯アイドルを続けるわけにはゆきません。いつかその境遇から巣立ち、次の人生を歩んでゆく。」
こんな風にアイドルってものを相対化されちゃうことに対する反発ってのが、自分の中にもある。アイドルが成長して、いつか巣立っていく。当たり前のことかもしれないけど、そんなこといわなくたっていいじゃないか、みたいな気持ちもある(辻に関しては当てはまらないと本気で言える)。「アイドル」でもこれだけできるんだ、みたいな、木村信司の掌の上で操られるような印象(僕はそこまで思わないんだけど)ってのも生まれうるわけで、そんなところでのアイドルの権威の相対化ってのがちょっと懸念はされるかなと。
アイドルを唯一の「超越的他者」としたいヲタにとって、「本格」っていう権威の存在は、やはり脅威だったかもしれない。ちょうどポップジャムの観覧で一般人と相対しなければならない時のように、他の価値世界と対峙しなければならないこと。そこで僕らは、例年のようなミュージカルのほうが安心して見ていられる、のような感想に逃げることもしたくなる。
岡女」とか、輝かしい時代の「うたばん」なんかで見られる娘。って、やっぱり外からの操作性から完全に逸脱したところで自らアイドル性を発現していたからこそ僕らも崇拝できた。もちろんうまく引き出してあげることも必要なんだけど、やはりそのアイドル先にありきというところは外せない。そういう、こっちからの操作不可能性、予測不可能性、でもそれがまた自分たちの期待にも見事に応えるものであること。そんな権威を娘。はまとっていたはずだ。今一番それを感じるのが辻だから、辻を応援している。アイドルって、そんなものなんじゃないのかなあ。

この頃ずっと自分は「アイドルに権威を!」って言っている。でもそれって難しいんだな。今回のミューで僕は娘。の権威は復活したと思ったんだ。けれども、そうした下から上への視線が、「アイドル」に対してのものだったかというと、あやしいような気もしてきた。もちろん「リボンの騎士」はとっても評価できるもので、別に1年に1回くらいこれからもやったっていいと思う、これが活動のメインにならなければ。
アイドルって概念に一直線に向かえないのですよ。人間だと言っちゃうとね、目線が下向きになっちゃったりするし、あまりにも虚構寄りだと、操作可能だと思っちゃうし、作品だと思うと、複製可能になっちゃうし、神だと言っちゃうとね、いや言いたいんだけどね、人はそう簡単には信じられないのです。
で、僕は、問いたくない問いを発することにもなっちゃうのだ。「アイドルとは何か」ってとこから奥へ。――アイドルを応援する自分ってなんなんだ? って。