虚構からの架橋

もうそろそろみんな気づいてるんだろーけど、娘。ミュージカルって、すげーですよね。
すげーと思うんです。なんかいっつも前日あたりでヤフオクで漁っているせいで、4枚のチケットに7万近くかかっているんだけど、じゃあそれってどうなんですか。…安いですよ。安いもんです。お安い御用なんですよ。
今までの娘。ミュージカルには僕はもちろん大いに評価をしている。つーか、大好きだった。今作を見るまでは、むしろこのベタに芸術をやろうとしている行為に引いていた。けれども、ふたを開けてみたらどうだ。惹きつけられている。会場まで引きつけられますよ。

ところで、僕は子供の頃、ミュージカルというものに強い嫌悪を抱いていた。それは、リアリティというものに対する感覚だ。なんで芝居の途中で歌を歌うんだろう。そのわざとらしさ、不自然さがどうにもいやだった。「物事をそのまま写し取るのがリアリティだ。」子供にありがちな考えではあっただろう。
芸術とは何か。芸術とは、現実のものではない、なんらかの虚構。であるならば、むしろ虚構は虚構らしくあったほうがいい。そう最近思うようになった。虚構が、虚構であるがゆえに、現実生活の中では目に見えない真実を我々に与えてくれる。言語使用における比喩表現がそうであるように、そうでないものが、あるものの特質をより露わにしてくれる。
「芝居こそ現実なのだ。」この言葉の意味。芸術が、なんらか人間の内奥の真理をえぐり出すものであるなら、芸術は現実に疲れ惑う者を、再び現実へと架橋してくれるもの。「Mystery of Life」へと誘い、そしてまた、現実世界で生きる希望まで僕らにくれたりする。

今日僕は、高橋愛という役者のあらわれをすべて見逃さなかった。男女の境界線を惑う不確かな存在の表れ、高橋愛というアイドルと人間と役者の現れ。全てが露わになった。そうしたら、僕自身も露わになった。高橋愛の魂に、自分の魂が感応して共鳴を起こす、って、全然大げさじゃない。僕は震えた。

再三言うように、稲増龍夫はアイドルを総合芸術であると言った。僕はその意味を今日はじめて理解できたんだと思う。
アイドルは、人間存在のたとえである。人間の美しさ・強さ、そして醜さ・弱さ、人間全てのたとえなんじゃないだろうか。僕らはアイドルという大げさな人間を見て、自分たちが何者であるかを知るのである。自分たちの強さも弱さも知るのである。アイドルは人間であって、人間でない。それは人間存在のたとえだからだ。人間ではないもののようでいて、最も人間らしい存在でもある。そのような総合芸術たるアイドルとミュージカルの混沌。なんという僥倖だろう!
フィナーレ、僕は人間ってすげえなって、素直に思わざるをえなかった。僕はそんなにベタに感動したがりではない。ニヒリスティックな部分を常に保っていたいような人間だ。けれども、こいつら(娘。)ってすげえな、人間ってすげえな、って恥ずかしいくらい思ってしまった。
「アイドルとはなにか。人間です。」という木村信司の言葉が胸に響く。
アイドルは人間でもある。だから、僕らもアイドルも同じだ、と言うこともできる。
「どちらも生まれて育って、死ぬときは死ぬのだ。」
で、アイドルはこんなすばらしい舞台で僕を勇気づけてくれたわけだ。じゃあ、自分は?ということになる。

「おい。俺たち、このままでいいのか。」って、問い直してみよう。