宝塚×娘。

さーて、ほとぼりも冷めたので大阪の感想でも。
レインボーピンクの印象が強すぎるが、それを除いても結構面白いライブではある。
残念ながら参戦数が少なくて、ノリ方がいまいち分からない曲も多いのだが、それにしても。
最近は昼夜参戦するときは、昼クソ席通路、夜良席というバランスを考えた席の取り方をしているが、今回もうまくそんな感じで。
いまだの恋ヴィクの振りを覚えてない私。
セクシーボーイでは機械のように踊る。
「NATURE…」とか「恋は発想…」とか「ラヴ&ピィ〜ス!…」とか聞いてると、カップリングの充実を感じる。こっちで売っていけばよかったのに。それが娘。色なんだから。
大阪恋の歌」での高橋は見るに値する。成長したなあって。
で。高橋とか吉澤とか、あとまあ、「色っぽい…」とか見ててもそうだが、なんか(ちゃんと見たことないけど)宝塚っぽいなあとか思っちゃうわけです。
ミュージカルの件もあってそう思っちゃうのかもしれないけど。
で、会場外の様子をふと思い出すわけだ。
大阪は他の会場よりも熱い、という印象があるが、それと同時に、他の会場でもそうだが、客層の広がりを感じた。女のヲタ、親子で来ているヲタ。子供がコスプレしている。女の子も男の子も。


卒論の参考資料に、『ファンとブームの社会心理』(1994:サイエンス社)というのがあった。その中の一章に「タカラヅカファン」の分析があって、細かく内容は思い出せないが、世代を通じてタカラヅカファンになる家族が取り上げられていたように思う。また一方、『アイドル工学』の法政大稲増教授もジャニーズのアイドル再生産システムに言及してたりする。
娘。にもそういうことが言えるんだろーか。今の娘。で、親子でライブに行くってのが、少し想像しにくいことだったので、現場で驚いたのだ。「娘。=宝塚」になれるんだろーか。無理だろうなあ。メンバーが入れ替わっても微動だにしない娘。ってのもどうかと思うしなあ。そもそもが危うさとともに歩んできたはずの娘。が、安定したシステムの中に収まるとは、やっぱり思えない。


だけども、娘。が人気の規模としては昔より明らかにマイナー化したのにもかかわらず、ファン層が若い男性に限定されず、いろいろな層に広がっていることはやはり注目すべきことなんだろう。老若男女、まあ女性の上の層がいないくらいか。で、そういう広い層向けの楽曲の歌詞は、普遍的なことを歌う。恋愛を歌っていたのが、普遍的な愛を歌う。それは「ラブマ」での転換だった。そして、娘。がマイナー化した後も、客層の広がりがある以上、その傾向はおおむね変わらないわけだ。
ジャニーズでもそうなんだろう。スマップがいまや「社会的良識」を代表するかのような曲を歌っている事実。当たり前のことだが、どこをターゲットとするかで曲は変わる。「Dear WOMAN」なんて、私には何も与えない曲だけど、社会全体に与えるものは大きいんだろう。なんかほんと、ゴールデンにやってる情報番組みたいだな。どの年齢もターゲットにして、それなりの面白さと情報を提供して、で、頭に何も残らない、みたいな。逆に、深夜番組は、万人受けしないけれども、熱狂的に支持される。新宗教と既成宗教の関係でもそうなんだけど、みんなに支持されるってのは、ある意味では、つまらなくなることだ。
Dear WOMAN」の作詞:麻生哲朗はどんな気持ちなんだろう。彼にとってこんな歌詞を作ることは造作もないことだろう。ほんとはもっと文学的だったり哲学的だったりすることが書けるんだろう。掌の上で大衆を操ってる感覚になるのかなあ。仕掛ける側としては、この歌詞はすばらしいと思う。でも受け手側のほうで、この歌詞がすばらしいと思う感覚が日本人の標準なんだとしたら、日本人の国語力って危ういと思う。


私は娘。の曲が、そんな曲よりよほどいいと思っている。
言語のはずれっぷり、全体性への志向。
少なくとも、心を揺り動かすものがある。いろいろな着想が湧く。
だから、ライブに行く。


うーん、まだまだ、小宇宙にとどまってんなあ。