性為る夜

思えば4年前は若かったと思う。
「形」で抵抗したがったからなあ。
お台場に独りで行く、ということにはそれなりの意味合いがある。
それは結果的なものではあったけれど、
つまりたまたまHEY!×3の観覧が当たったという偶然であったんだけれども、
そういう自分がいいと思った。
カップルにまみれてゆりかもめに押し込まれる自分がよかった。
帰りにケーキを二つ買った。それは要は二人分買ったという意味だ。
それだけ痛々しいことができた。
そのころは部屋中ポスターだらけでもあった。
そうやって、アイデンティティを獲得していった。
形から、儀式から内面を獲得していくということ、今思えば、
2001年の自分はそういう過程をたどった。
ミニモニ。のシングルを買うことによって娘。が好きであるということになり、
娘。のベストアルバムを買うことでそれを確認した。
矢口のポスターを買うことで、矢口が好きであるということを知った。
こういう行動って、信者が布教をすることと全く同じである。
自分で行動し、発言をすることによって信仰を獲得する。
形が先か、内容が先か分からない。
行動が先か、内面が先か、分からない。
そういうことが、ある。…卒論でも同じようなこと書いたな。


流行をこそ規範とする人は、結構楽だ。
わざわざ自分がせかせか動き回らなくても、世間の多数決で自分を正当化することができるから。
ヲタはそうじゃない。
自分のしていることを確かめなくちゃいけない。
アイデンティティが固まるまでは、見せつけといえるまでの過剰な行動が必要になる。
2002年途中まで、そうした傾向は続いた。
でも、当たり前だ、当然だと、うしろめたさがなくなるようになれば、
形はいらなくなる。内面だけで十分に安定するようになる。


で、今、「クリスマスに二人で過ごすことが幸せである。」という価値に対して、
自分はどういうスタンスをとるのか。
昔ほど、ヲタの価値世界で「抵抗」しようという気はないのだ。
むしろ、どうでもよい感じだ。
ちょっとネタ的に茶化してみたい気はするけど、うーん、
抵抗を頑張ってみようという気力はないなあ。
(4年前は、ネタというよりはベタだったよなあ。
やぐと二人で過ごした、とか言えちゃいそうだったもんなあ…)
この世は楽しんだもん勝ち、というのは一つの真理であると思う。
だから、いくら「抵抗」してもあんまり勝負にならない。
自分なりにクリスマスを作り上げてしまった方が賢い、とは言えるかもしれない。
だから、クリスマスをメロンと過ごしても、いいんです。
いや、結局やってることはいっしょなんだけどね、
意識的には結構変わったかなあ。
世間に対しての抵抗という意味合いはあまりないなあ。
ただ単に、仕事のストレスを解消するため、と言えてしまうかもしれない。
それじゃ、自分も随分単純な大人に成り下がったじゃないか、と4年前の自分なら言うだろうか。