石村舞波卒業

久々の、「本当の」卒業ということで、だいぶ相場が盛り上がってましたが、
まあそれを見に行くほどの思い入れはなく、現場がどうであったかはあまりよく分からない。
サイリウムだとか、舞波コールだとか、まあ結局そうした体験というのを見ていない側がどうこう言ってもしょうがないことだ。
ただ、その卒業が「中学生らしい」だとか、娘。と比して「ベリーズらしい」とか、言ってる人の気持ちはよく分からない。いや、なんだか胡散臭い。
「残念だけど、舞波の選んだ道だから」とか、なんだかなあ、と思うのだ。
ここでいう、「なんだかなあ」は、共感でもあるし悪い意味でもある。
数ヶ月前には矢口の件で自分もおんなじようなことを考えていたこともあるし、気持ちはわかるのだ。
なんとかして、肯定的に捉えようとする気持ちはわかるのだが、でも、ただ泣けばいいのに、とも思うのだ。
石村は「芸能界」よりも「中学校生活」を選んだわけだ。
「普通の中学生」に戻りたいわけだ。
それに対してヲタができることは、「幸せになー」と祈ることだけだ。そこに直接的に関与していくことはできない。石村がベリーズの思い出を忘れることはないだろうが、しかし新しい中学校生活においてはそれはリセットされねばならないのであって、そこにはヲタの存在は不要だ。もちろんそこまで追っかけたら、やばいことになる。
つまり、当然のことだが、現実的に石村を応援することは不可能になる。石村を愛しようがなくなる。生身のアイドルを応援することの悲劇がこれだ。
だったら、もっと駄々をこねてもいいんじゃないかと思ってしまうのだ。
やめないでやめないで、って、大人気なくてもいいと思うのだ。
でも、やっぱり、大人気ないのはだめかあ。
最後は感謝の気持ちをこめて、送り出そうという気持ちになるのかな。
それが愛だ、と思って、そうするのかなあ。
…アイドルヲタって、哀しいね。
そうしたアイドルの事情には徹底して受身であらざるをえないんだ。
だけどその生身性が、リアルな感覚をヲタに与えるんだ。
だから、いつなくなるとも分からない至福を享受するヲタは、ともかく今を、今を生きるしかない。彼女たちが今の彼女たちである、ほんのつかの間を永遠のように生きたいのだ、多分。
そういうベリヲタをバカと言ってもいいし、幸せだとうらやんでもいい、それはそれぞれの人間の立ち位置による。
で、自分はどう思うかと言ったら、やはり彼らは幸せなんだと思う。自分の幸せというものをしっかりと享受しているのだ。もちろんその刹那主義的な生き方をバカにすることは容易にできるのだ、え、そのあとどうすんの、とか、まともに職にもつかないで、とか。いやしかし、社会人になった身で、逆に思うのだ、好きなことはやっておけって。そして、できることならそうした期間をのばせ、見苦しいほどに。そのあとは?…死んでしまえばいい。
できるかぎりヲタを続けろ、精一杯続けろ、そして、さっさと死んでしまえ。
これがなんだか、最高の幸せのような気がするんだなあ。


長生きとか、結婚とか、金とか地位とか名誉とか、いやーやっぱいらねえや。