勘違い

oota

時間認識と接続のミスが重なって、1時間近く開演に遅刻するというバカをやる。
太田市民会館に着いたのはののたんの「ね〜え?」終わり間際。
おいおい、これを見に来たんだろーが…
気を取り直して、ライブに集中。
それにしてもだ。
わしゃ、重大な勘違いをしていたんじゃないだろーか。
辻が、虚構のアイドルであると。


6列左サイドで見た。
辻の腹中心にだ。
うーむ、縦に線が入ってる。
腹筋のラインがはっきり見えるのだ。
無駄のない肉体だ。
腕の筋肉、ももの筋肉。
視線はまるでアスリートに対するそれになる。
…あれ、「生身性」こそが問題になっているではないか。
その筋肉は、まさにそこに実在するという「確実さ」を感じさせる。


うーむ、虚構のアイドルとして自分が考えている、つるつる、すべすべしたアニメ的な肌の均質さなどそこには見られないのだ。
自分は「マジヲタ」と「DD」という二項対立の中で、辻に対する萌えを、その人格が問題にならず、表層的な「萌え要素」に対して萌えるような「アニメ的萌え」=「DD的な推し方」だと考えてきた。
しかし、こりゃあ、違うかもしれんぞぉ。


筋肉に対する萌え、というだけなら、そういう、「筋肉アイドル」という設定に萌えているのだ、といって済ますことも確かに可能かもしれない。
だが、振り返ってみると、ともかく自分は近くで辻を見たいのだ。
そして、レスをもらいに行く。
それに、2003年以来、辻とだけ握手してないことを心残りにしてるではないかー
つまり自分は、辻とコミュニケートする可能性を信じているんだな。
だからそれを、「DD的な推し方」と言うのは、無理があるよな。


「マジヲタ」―「DD」の二項で考えるのではなく、「マジヲタ」内での分類をすべきだな。
つまり、「人格的崇拝」――アイドルの人格を強く意識し、尊敬、崇拝し、しばしば擬似恋愛的にアイドルを推す、こうした初期娘。に見られた推し方ではなく、「無垢さへの崇拝」とでもいうものがそこにはある。幼さ、純粋さ、無垢さ――こうした汚れなさという「聖性」に対しての崇拝、これは辻においてもそうだが、Berryzのヲタにおいてもっとも分かりやすい形で表れている。
これと、ロリ――(アニメ的萌え)に近い――との違いは何かと言えば、ロリは崇拝というよりは、自分が支配的な側にいたいということだと思えるのに対し、こちらは崇拝であるということ。つまりは自分が上にいるのか、下にいるのかということだ。
自分は辻より偉いとも上だとも思わないし、まして辻を自分の思い通りにしようなどとは思わない。ただただその奔放さに「参る」だけだ。


99年〜00年の娘。のメジャーアイドル化以降、「マジヲタ」→「DD」化という大きな流れと共に、局所的には「マジヲタ(人格的崇拝)」→「マジヲタ(無垢さへの崇拝)」という流れも確かにあったようだ。その最たるものがベリヲタの増加だと言うことができよう。
「DD」化という流れの中でも、こうして「マジヲタ」が形を変えて生き残るということは、やはり我々が「アイドルヲタ」であるということだろう。我々は「アニメヲタ」ではなく、「アイドルヲタ」なのだ。そして、そのもっとも大きな差異は、もちろん、「虚構」なのか「リアル」なのかだ。
アイドルはいる、間違いなくこの世にいるのだ。
ここ数ヶ月の発言を撤回しよう。
辻は実在する。


…ん? 我々っていう言い方ができるようになりましたよ、また。
そういや、FCの継続もしたんだった。