差別と区別の狭間

中国人が働いているラーメン屋に入った。
日本語があまりうまくないのだ。
こっちの注文をちゃんと聞いてくれてるんだろうか。
不安になる。
不安にさせた時点で、客商売としては失敗だよね。


だから、自分が経営者だったら、極力中国人を雇わないようにするだろう。
日本人を雇うようにするだろう。
それは合理的判断だ。
それは差別か?
正確に言えば、中国人かどうかを問題にしているのではなく、日本語能力を問題にしているわけで、日本語を完璧にしゃべる中国人がいれば、それはそれでいいわけだが、そういうことをいちいち判断していられないから、中国人を雇わない、ということになろう。
確かにそれは、決め付け、という点で差別のような気もするが、例えば面接での様子で全てが判断されて雇用が決まるとするのならば、どんな面接においても少ない情報から決め付けによって判断がなされるという点において同じであるということは言えよう。


で、言いたいことは何かというと、僕達はほとんど、美しい女性と美しくない女性であったら美しい女性の方に好意を持つということである。それは厳然たる事実なのだ。
ある女性を一目見た瞬間、美人か美人でないか、分類される。意図しなくたってそれくらいの判断は誰でもしてしまう。で、美人の方がいいに決まっている、ほとんどの人には。
だから受付のお姉さんには極力美人が雇われるのだ。
差別、ということをもし真剣に語りたい人がいるのなら、この厳然たる事実から目をそらしてはいけないと思う。


例えば、顔に大きなあざがある人がいたとする。
それを見た人は、一瞬嫌な気分になる。内心「うわっ」と思う。
それを否定してはいけない。だって思っちゃうんだから。
そこで、そう思っちゃうこと自体をやめろという差別撤廃論者がいたら馬鹿というほかない。
それは、あたかもそれがなかったことにしろ、ということである。
そういう人との違いがそもそもないということにしてしまうことだ。
だがしかし、美人でない人に「人は顔では決まらない」と言っても、結局もてるのは美人であるという厳然たる事実が、余計その人を苦しめるように、何か人と違うネガティブな点を持ってしまっている人は、明らかに生きづらいのである。
人間が言語を使い、あらゆるものを分類して生きている以上、あるものと他のものを区別するということは避けられない。そして区別は差別といつも隣り合わせだ。
差別を語りたかったら、まずはその違いをはっきり認めることだとは思う。
同じ人間だ、と無責任に語るのではなく、違う人間だけどこの世で一緒に生きる存在として語る。
とはいえ、自分はそんな面倒な問題に首を突っ込もうとは全く思わないが。
自分はこれからも決め付け、排除して生きていくだろう。それが楽だからだ。
実はその「楽さ」こそが問題なんだけど、みんなそこで手間をかけるほど暇じゃあないのだ。


もうあのラーメン屋に行こうとは思わない。