多分絶対

自分で、「多分絶対」って言葉を使うことがあったのだ。で、それは明らかにおかしいと思ってた。
でも、そういう言葉遣いをする人がわりといる。
それが客観と主観に敏感な現代人のあり方なんだろう。
多分、という逃げ道を用意しておきながら、自分は絶対だと思ってる、という繊細な表現。あらかじめそれに対して突っ込まれることを想定した上での防衛策が「多分」なのだな。
私が日本語に感じる美しさは、こういう繊細さのことだ。時にそれは矛盾しているかのような不自然さをともなうことがあるけれども、それさえも美しい、と思うのが私の言語感覚。
だって、比喩表現や様々な表現技巧は普通の言語用法から逸脱するがゆえに味があるんだからな。