今更ながら「青春ばかちん料理塾」を見る

アイドル映画は、こんな感じがいいんだろう。
話はどうでもよくて、
結局アイドルをどう見せるかに主眼が置かれてればいいんだろう。
武田鉄也との絡みはそういう意味で安心して見ていられるのでよい。
逆に、なんかメッセージ性を込めようとして料理教室の若者と揉め事が起こるのがよくない。
さらに、その揉め事があっさりと解決してしまうのもどうか。


しかしながら、アイドル映画のひとつの見せ場は、
いかにメッセージ性を込めることに失敗しているか、であることも確かだ。
無理に揉め事を起こして、ヒロインが決め台詞を吐き、
万事が解決するその安直さこそが、アイドルがプロレス的であることの所以だ。
偉大な映画「ピンチランナー」では、
一生懸命走るスポ根ドラマを作ろうとしながら(本気で作ろうとしているか些か疑問だが)、
飯田が走りながら余裕の表情で笑って手を振っていたり、
沿道を必死で走るヲタの映像により映画の雰囲気がまるで台無しになっていることが最高に面白いわけだが、「ばかちん」もそうしたアイドル映画の作り方にのっとった作品である。


とは言え、後藤の熱演にはこちらも涙しそうになる。
ドラマうんぬんより、アイドルが泣いているということが、
それを「泣ける映画」にしてしまうのだが、特に私は後藤の涙に弱いのだ。
松浦より、圧倒的に後藤に弱い。
後藤がなにか悲しさ切なさを含み持ったアイドルに感じてしまうからか。
(03年の後藤ミュージカルは3回見に行って3回とも号泣していた自分が懐かしい。)
松浦はその圧倒的な幸福感が、悲劇のヒロインを演ずるにはどうしても不似合いに思われる。
「青の炎」はしっかり見ていないが、松浦の涙によって泣く、ということは自分にはありえないような気がする。
松浦の演技に泣くことはあるのかもしれないけれど。
演技するときの松浦を、自分はアイドルとして見ていないのだな。


24時間テレビの石川や安倍のドラマにも泣いてしまう自分がいたが、
これはもうアイドル世界のルールにのっとった行動であった。
「ここは泣くところだから」と、アイドルの熱演に泣くヲタ、という構図に自分を当てはめたのだ。
冷静に見れば演技のへたくそさやドラマの無理な設定、筋書きに興ざめしてしまうようなところを、アイドル世界への没入によって誤魔化し、泣いてしまう。


主客のバランスをとりながらアイドル映画を見れば、このように過度に笑ったり泣いたりして、
存分に映画を楽しむことができる。
この過剰さはある種の儀礼、儀式であるとも言えるかもしれない。
あまりにもくだらないアイドル映画を楽しめるかどうかは、
信者であるかどうかが試されている場なのかも知れないぞ。