月刊加護亜依

「月刊加護亜依REMIX」というのも最近売っているそうですが、買わず。
1月に買った「月刊加護亜依」の感想をまだ書いていなかったので今さらながら。

月刊加護亜依 (SHINCHO MOOK 111)

月刊加護亜依 (SHINCHO MOOK 111)

どうしてもアイドルの実存的な問題を考える上で、僕の中では加護亜依は批判すべき対象になってしまう。別に個人攻撃をしたいわけではなくても、今のような彼女のあり方とか言動とか(まあすべて追いかけているわけではないのだが)を見ていると、不安定な感じがしてしまう。それはアイドルの弱さゆえのかわいさ、などとは全く違う。
写真集中盤のインタビュー記事を読むと、やはりぼくは釈然としない思いを抱いてしまう。

『もっとリアルな人になりたいと思った。すべて着飾る人ではなくて、もっと自分で音楽を作りたいとか、自分の足でちゃんと歩きたいみたいな……そういうニュアンスなんですけど。「これをやりなさい」と言われて、それをやるんじゃなくて、自分がこれをしたいからこういうふうにしたい。』

ぼくが写真集を見て感じるのは、これは、「加護亜依はセックスをします」と言っている写真集なのだなあ、ということだ。面白いとか、かわいいとか、その他いろいろな想像力を排除して、ただセクシャルな想像力へと押し込んでいって、そのただ一つこそが「リアル」だなどと言いたいんじゃないか、と文句をつけたくなる、どうしても。昨年から再三書いていることではあるが、着飾っているものをすべて剥いだら「ほんとうのじぶん」が出てくる、なんて、現実はそんなに簡単には出来ていない。ベッドシーンとか、トイレとか、胸の谷間とか、下着とかいう、隠されるべきものが露わになることが「リアル」だなんて、そんな薄っぺらな想像力はいらない。
ぼくは残念ながら、アイドルが自己表現をするということに希望を持っていない。自分で歌詞を作るとか、曲を作るとかいったことは、むしろアイドルをアイドルでなくすることだし、それがうまくいくことはまずないと思っている。アイドルが作詞したところで、ありきたりな代替可能な歌詞が出来上がることだろうと思う(ぼくはエイベックス系の歌詞も大体そんなふうに見えてしまうのだが)。アイドル現象は、アイドルである人間を超越する。アイドルを神のようなものだと捉えるなら、ある人間(あるいはあるキャラクター)を核として、我々神を崇めるものが神を神たらしめるのであって、決してある人間がそれそのものとして神なのではない。だから、ある人間のすべてが目に見える状態になってはいけない。その人間が自分を露わにしようとすればするほど、我々の想像力は貧困に、そして、それはもしかすると当人自身の想像力さえ貧困にしてしまうのではないかと思う。



加護亜依“不倫相手”前妻から慰謝料請求
http://news.goo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/kfuln20090307006001.html



加護は昨年11月にメニエール病であることを告白した(その後ただの疲労だということになった)。そして先日、“不倫相手”から慰謝料を請求される、と、相変わらず「リアルな物語」を紡いでしまっている。本人の意志でないところであっても、「加護亜依」という物語を作る作用は勝手に働いてしまう。メディアの中のオフィシャルな加護も、メディアとは独立したところで成り立つと措定されているところの加護も全部十把一絡げにして、一つの加護亜依に押し込もうとする暴力が結局のところ発動してしまっていて、それには「リアルな人になりたい」と言う加護自身も一枚噛んでしまっている印象は否めないのである。「リアル」が虚構から独立した特権を持っているかのような錯覚を持ってはいけないのではないか、と改めて思う。
もちろん現状の加護が、「黒アイドル」と言われるような存在として成り立ってしまう可能性はあるし、現にそんな感じもする(昔の広末を見ているようだとぼくは思う)。だけれども、加護が「リアルな人」と言う時に志向されているものが、「黒アイドル」であったはずがないと思うのだが、これでいいのだろうか。余計なお世話なのかもしれないけど、どうしてもそう思う。


…もう一つ、とても重要なことだが、ここでぼくが批判の対象にしている加護というのは、一体どういう加護なのだろうか。ぼくもまたここで、自分の加護亜依像を作り上げた上で批判をするという自作自演をしているようなもどかしさから逃れることが出来ない。アイドル論の困難がここにある。