メタんだよ・ネタんだよ〜紫SHIKIBU〜

ひさびさにアイドル論を書こうと思う。
紫SHIKIBUは面白いグループだ。とりたてて特別な何かだとは思わない。いかにもな感じだ。
紫SHIKIBUは、世界のナベアツ光GENJIを模して作った「竹馬アイドル」だ。
竹馬に乗りながら、「LOVEなんだよ」というアイドル的な歌詞の歌を歌う。
これが初めて披露されたのは昨年夏のTBS系「あらびき団」であったが、2月11日にナベアツに4人のメンバーを加えた形でCDデビューを果たした。
個人的には、一番の見どころはココリコ田中(しゃっくん)の困った笑顔だ。

LOVEなんだよ(初回限定盤)(DVD付)

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男性アイドルは、基本的にかっこいいものである。で、かっこいいとは、何かの価値にコミットしていて、それが認められていることである。光GENJIであれば、端的にはそれはローラースケートであった。ローラースケートで滑りながらうまく歌って踊るということ。実際に当時の動画を見てみたら、滑稽に見えるかと予想していたが、結構すごかった。それでも、その時代性(80〜90年初頭の雰囲気)を感じてしまうと、ベタにかっこいい、とは言えない。「かっこいい」は、多分に時代的な価値にコミットすることであるから、かっこいいものは時が過ぎればかっこよくないものになる。そういうものでなければ、ある時代においてかっこいいアイドルにはなれない。(ところで、スポーツ選手は身体技能という普遍的な価値にコミットして「かっこよさ」を獲得するが、こちらは身体的な衰えと共に「かっこよさ」を失っていく。)
「竹馬アイドル」は、光GENJIを模しながらも、あえてかっこよさとは対極にあるような「竹馬」をモチーフにすることによってお笑いとして成立させている。けれども一方で、竹馬がかっこわるくてなぜローラースケートがかっこいいのか、という価値観への問題提起でもある。お笑いとしては、別におっさんがローラースケートで歌おうとして失敗する、というような図でも十分に笑いは取れそうである。そうしたメタ化でも問題はないのに、竹馬アイドルとしたのはなぜか。
たしかに竹馬は、普遍的にかっこわるい気がする。ローラースケートアイドルはありでも、竹馬アイドルはなしだ、と多くの人がおそらく思うだろう。それはなぜなのか。けれどもまた一方で、人気を博し、認められたアイドルがやることによって、「なし」だと思われていたものが「あり」になることもある。例えば、ハロプロ全盛期の2001年に組まれた「10人祭」などは、到底アイドル的な「かっこよさ」「かわいさ」からはかけ離れていた。けれども、当時の勢いが、それをアイドルとして成立させていた。あくまでそれはネタだったという見方はあるだろうが、受容されている時点で、実はネタであるかベタであるかということは実は区別が出来なくなっている。受容するとは、少なからずベタであることだからだ。「竹馬アイドル」に話を戻すと、「あらびき団」においてはメタ的に現れていた彼らも、「エンタの神様」では登場と共に黄色い歓声を浴びる存在になってしまう。両番組共に、近年のバラエティー番組特有の、映像を見ている出演者・観客を含めて映すという手法が取られるが、その現れ方は異なる。「あらびき団」では東野幸治藤井隆が、生ではない映像をお笑いの対象として見ている図であるから、どうしてもメタ的になる。「エンタの神様」では、生出演している彼らに対し、観客がリアルタイムで反応していく。構造的にベタ的である。(両番組の放送時間のズレもそうしたベタ・メタの構造と関係しているだろう。)我々視聴者はどうしてもブラウン管の中の視聴者に自然と同一化していく。たとえば「エンタの神様」で「竹馬アイドル」に歓声をあげる女性客に、「なんで?」と問うていくことよりも、それらの観客側に安住して楽しんでしまう方が楽だし、自然なのだ。
だから、あえて最もかっこよくなさそうな「竹馬アイドル」を選択することで、ナベアツは「結局おまえらなんだっていいんだろ?」という皮肉を言ってみせているのかもしれない。芸人がアイドル化する傾向が強い中、アイドルになりきることでそうした状況を風刺する。「かっこよさ」と「かっこわるさ」の表裏一体の関係を可視化する。そういう意味でも、十分に成功を収めている企画だと言える。


ついでに歌詞について。
「LOVEなんだよ」は「〜(な)んだよ」という響きが醸すアイドル的雰囲気に特化して、それを戯画化した曲である。
「〜(な)んだよ」。さらに言うなら、これは「(な)ん」の問題である。
「好きなんだよ」は、「好きだよ」「好きなのだよ」と何が違うのか。「好きなのだよ」はさすがに自然な喋り言葉から離れてしまうのでいいとして、「好きだよ」と「好きなんだよ」の違いは何か。「好きなんだよ」の方が、いろいろな読み込みが出来そうな気がする。


①理由説明としての「なんだ」
「だって好きなんだもん」というような、理由を説明する時の「なんだ」。
②やむにやまれぬ「なんだ」
「好きなんだよ、どうしようもないんだよ!」というような抗えない感情の発露としての「なんだ」。
③相手に同意、確認を求める「なんだ」
「こんなに好きなんだよ?分かってる?」という、相手に認められたい、理解されたい「なんだ」。
…などなど。


「好きだよ」よりも明らかに「好きなんだよ」が豊かな表現であることが分かる。そうした情感が豊に表せる言葉が歌詞に使用されるのは当然である。特にアイドルの恋愛の曲には典型的である。それを戯画化する。なんにでも「〜(な)んだよ」をつける。
この曲が面白いのは、成立しないものにまで「〜んだよ」をつけた結果、時々は他の言葉として成り立ってしまうという言葉の面白さである。特に以下の部分。


ボクはキミに夢中んだよ とりこんだよ
虜になったという受動性と、取り込むという能動性の錯綜。特にアイドルということについて言うなら、アイドルの虜になるということは、アイドルの現場に行って忙しくなる(取り込んでいる)ということであるし、いろいろな媒体への露出をチェックするという意味で、様々に情報を取り込んでいくということでもあるのだ。


いてもたってもんだよ
はりさけそうな胸んだよ

ここも秀逸。「はりさけそうな胸」と「無念」がかかってなんとアンビバレントな胸の内か。さらに上の行と合わせて見たとき、「もんだ」「胸」と配置してあることにも注目しなければならない。


こうした言葉遊びはしばしば子供向けの楽曲や、アイドル歌謡において現れるものだ。言葉の身体性や多義性に注目し、複眼的な視点を持ち込んでくれる。「竹馬アイドル」におけるその言葉遊びは、アイドルを戯画化したお笑い芸人が、他の視点からはアイドルとして成り立ってしまうという彼ら自身の比喩でもあるかのようである。