ベリキュー合紺総括

5月4日合紺最終日。
心斎橋の東急ハンズでスケブなど買っていたら、開演ギリギリの到着になってしまった。
なっきぃTにあわてて着替えて、あまりにあわてていて普通のTをどこかに忘れてしまう。
はじめてオクで最前列を落とした昼。盲信感、猛進感がすごい。
A列左寄りサブセンターブロック。前は撮影用に少しスペースがある。
例によって、また記憶がない。確か「大きな愛でもてなして」と「That's the POWER」の時に0ズレで見つめ合って踊っていた気がする。この「見つめ合って」にもう注釈を入れようと思わない。見つめ合って踊った。そういう時って、むやみやたらにがっつくとかじゃなくて、ただ同じ振りをしているだけで幸せだと思えるし、なっきぃも楽しそうなので僕も幸せなのだ。良席で気をつけなくてはいけないのは、がっつくとかレスを求めるという能動性と、ステージを楽しむという受動性のバランス。ついつい能動性に偏ると、ただ疲れるだけ、ということになりかねない。
もうひとつ試されるのは、推しにがっつくのか、それとも近くのメンバーにがっつくのか、ということだが、 僕はなっきぃが出ている時にはなっきぃをひたすら見た。多少不自然な体の向きになろうとも、だ。ところでここで問題になってくるのは、最前列はある程度(自分含め)狂信的なヲタが多いので、推しがいる時といない時の熱にあまりにも差がありすぎて演者に失礼なんじゃないか、ということ。梨沙子のソロの時についついなっきぃへ宛てたスケブメッセージを準備してしまう僕も含めて、マナーとしてどうなんだろうな、と思うところはあった。ただ個人的なメリットとして、隣が両方ベリヲタだったため、分業のようになって、お互い推しがいない時はおとなしくしてがっつくヲタに譲る、みたいな連帯もまたあった。
当たり前のことだが、ステージ上の彼女たちは僕らよりもよっぽどがんばっている。終盤になってふとした瞬間に汗をぬぐうなっきぃは、そこで人間性を垣間見せる。僕はそれが最近愛しくてたまらなくなっている。


夜公演、4列右端付近。
最前に比べたら遠い。この感覚は怖い。
アイドルができるだけ裸に近い格好になるのは――例えば℃-uteがふとももをしっかり露出する傾向にあるのは――やはり距離感の問題なんだろうと思う。できるだけアイドルに近づきたい。肌を露出すればするほど、僕らとアイドルの間の余計な遮蔽物がないことになる。アイドルにおいて一番「顔」が問題になるのも、そういった「存在との距離」という問題なのではないかと思う。それは単純に性的欲望の視点でのみ片付けられることではないはずだ(℃-uteは性的視線を喚起するような、胸の大きさが分かるような衣装をあまり着ない、ということは重要)。
なっきぃが「夏ドキ」で足を高く上げるとき、僕は震えるのだが、ほとんどそれは人間賛歌・生命賛歌が体内で響き渡るかのごとく、なのだ。決してそのふとももの延長線上に女性器は存在しない。ただ生命という抽象への導入のみを強く感じている。
僕はなんだか知らないけれど、なっきぃへの畏敬の念に自分が打ちのめされた。レスがどうたらとか、まあそれも大事なんだけど、最後には「なっきぃ、ありがとう」だけ伝えたくなった。キューティーレンジャーのところで、絶対疲れきってるのにほとんどやけくそのようにキックの振りを何回もやる手を抜かないなっきぃが愛しくて泣きそうになる。ひいき目かどうかはどうでもいいが、なっきぃは一番がんばっている。MCで舞美がキッズからの歴史について触れた。その感慨は「桜チラリ」でのメンバーの涙を見れば明らかだ。なっきぃは鼻を赤くして、何度も後ろを向いてそっと涙を拭いた。
「アイドルが頑張っているから僕も頑張る」という考えはとてつもなくくだらない、と今も思う。だけど、そのくだらなさに一生を賭けても僕はかまわないと思った。「なっきぃのためなら死ねる」とか、そんなあほらしいことを言う気は失せた。そんなことは実践してなんぼなのだ。僕は全うな人間になろうと心底思う。


今日、アメーバスタジオでの生放送をほんの刹那、満員電車から外の景色を見るごとき狭苦しさの中で観覧したが、大阪からの移動もものともせず、相変わらずのキラキラを伴った笑顔と、特徴のある声でなっきぃは存在した。うん、なっきぃ、いる。すごいな。頑張ろう、おれ。


(うーん、完全に没入した日記だなぁ。)