「ケガ」⇔「萌え」

ワニブックスからこういう写真集が出たそうです。
http://shop.wani.co.jp/shop/goods/goods.asp?goods=978-4-8470-4030-6
『ケガドル!〜桃十字病院のホータイ系少女たち〜』
「昨今メイド、妹、ツンデレなど様々な萌え属性が2次元から3次元に移植されてきましたが、最新版『ヱヴァ』も公開される'07年、ついに禁断の扉が開かれ3次元でケガ萌えブレイクです。仲村みう鈴木茜末永佳子ら大注目アイドル達が包帯ぐるぐる but 大胆露出&Hポーズなケガ萌えSHOTに大挑戦。切なくエロくドラマチックな、負傷系少女たちの肢体と視線に魂ごと持っていかれて下さい!」


…だそうなんですが。非常に興味深い試みではあるのですが、表紙を見た感じ、これが萌えなのか、という疑念。(眼帯をしちゃうと顔を全体として見ることができないので、どうなのかなとも思う。)
形式と内容、という点で言えば、これはケガ萌え(内容)じゃなくて包帯やら眼帯萌え(形式)であって、ケガそのものへの萌えを創ろうとしているのではない。


http://akiba.keizai.biz/headline/562/index.html
『広報担当者は「負傷系少女」をテーマに採用したきっかけについて、「写真集企画者が、ゴスロリ系の女の子たちが包帯をアイテムとして使っているのを見て『そのままだとダーク過ぎるが、トーンを明るくすれば男子向けの「萌え属性」として成立するのでは』ないかと思ったのが始まり」と話している。

「ベタなグラビアに飽きた3次元の好きな方々や、普段アイドルに興味のない2次元の住人の方々、マニアではないが若干非日常的な興奮と感動を求めている方々などに手にしてもらえれば」』



どうなんでしょう。これを見て萌える人が、「負傷系少女」に萌えるとは思えないなあ。単なるコスプレのひとつでしかない。軽いな。「負傷」という言葉の重みはない。「負傷」という言葉と「萌え」の親和性のなさ。表紙の彼女達には生身性もないように思われる(写真集の中身を見れば印象が変わるだろうか)。
ケガに惹かれるというのは「人間」への欲望に違いない。身体的、そして精神的に傷ついている、という人間性への欲望、と言ったらよいのか。ハローで言えば、今よりも昔のASAYAN的な手法に近い。10年前、飯田圭織が「目が見えない」と言うとき(古いな)、飯田は「目が見えないキャラ」を演じているのではなく、「本当に」目が見えないのである。あるいは、紺野あさ美のデビュー当初のケガは、「ドジっ子キャラ」ではなく、ケガをして苦しんでいるアイドルが頑張っている物語として機能したのだ。それに比べると、仲村みうの眼帯の奥で、血液が流れている感じがしない。
僕は、取り立ててこの写真集を批判する気はないのだけれど、ただ、若干ちぐはぐな感じがしないでもないのだ。「負傷」ということから、サディスティックな欲望を喚起するダークな写真集にするでもなく、だからと言って表紙を見る限り、美少女の「萌え」に忠実という感じもしない。そしてまた、その身体性と記号性の間を架橋するような挑戦的な意志も別に感じない。コメントだけ読むと、短絡的な企画のような気もしてしまう。(ケガを萌え属性にしてしまおうなどということへの倫理的な批判――身体性を安易に記号性にすりかえて人間性を剥奪する――も可能だけども、まあそこは今回は特に突っ込まないことにする。)
「萌え」に関しては繰り返し書いているが、もし「萌え」が「萌え」対象への同一化の欲望という側面が強いのなら、できるだけ萌え対象の身体性が希薄である方がよい。そうしないとその入れ物に僕が入っていけないから。であるならば、「ケガ」という、身体性が露わになることと、「萌え」をつなげることにはだいぶ無理が生じる。包帯の下には何もないほうがよいのだ。
萌えを追求する人々は、最終的には自らが超越的な存在になりたい。超越的な萌え対象に自らを同一化させていきたい。いつまでも美しく、永久に生き長らえたい。じゃあ、ほら、包帯でぐるぐる巻きにでもして、ミイラになりますか。