知りたい情報

最近、に限ったことではないんだが、ニュースってなんだろうなと思うのだ。


例えば、「愛子様」が抱いていたぬいぐるみの正体は『ダールン』というんだとか。
いろいろなことを踏まえて考えても、「気になってしょうがなかった」人のことをバカだと思うことをやめられない。そいつが皇室ヲタだったら、それはもう結構なことだ。でもどうせ前まで韓流の波に乗ろうとしていたような人たちなんだろう。
知りたい、ということに、理由はあんまりない。うさぎがダールンだとわかったからといって、実際に買う人はそんなに多くないはずだ。ダイエットの効果的な方法がわかったからといって、それを実践する人は少ない。健康的な生活スタイルが紹介されたからといって、実践するわけではない。知るために知る。情報を享受しているその瞬間のみが問題になる。エネルギー補給のために食事をするんじゃなくて、ただおいしいものを食べる、ということと似ているかな。
一つ言えることは、気になったことは大体なんでも調べることができる時代だ、ということが、知りたいという欲望を喚起しているという側面もあるだろうということ。だからますます瑣末なことを人々は知りたがるようになる。その情報をもっと高みから見たときの意義(例えば社会的な意義だとか自己実現にどれだけ有用であるかとか)に関してはもはやどうでもよい。


じゃあ、栃木県の女児の遺体が茨城で発見されたニュースはどうか。
茨城で遺体が発見されたという速報が流れ、栃木県の行方不明の女児との関連性を調べているという情報が与えられる。しかしながら、この速報が一般の視聴者に必要なものかといえば、どうでもいい。ただただ、始まってしまったお話が終わらないのはもどかしいから、その遺体が行方不明だった女児であったことが判明するというケリがついてほしいんだ。ケリがついたら安心して、今度はヤギ容疑者の方の事件でも気にしてみるのだ。要は、なんだな、そういうのを心配した振りして、そういう事件に胸を痛めている振りして、自分が良識的な人間だと思っているのが許せなかったりどうでもよかったりするのだ。


だから、そういう倫理的な責任を追及しつつ、自分たちがそうした道徳的な問題にタッチしない、完全にどうでもよい領域で瑣末な情報に振り回されるヲタであることに意義を見出すことができる。深く考えればそうした戦略的な振る舞いとしてのヲタというものが浮かび上がるが、一見ただただバカであるヲタ、というか、ほとんどの人はそんなこと考えちゃいない。そういうところに、なぜかすがすがしさを感じている自分は確かにいた。
その代わり、社会的なことに責任を負えなくなるという問題は、もちろんあるんだが。