長嶋教現象から考える

長嶋茂雄が東京ドームに姿を現したことがたいそうなニュースになった。
自分はなぜか長嶋を大して好きではないので、ふーん、という感じなのだが、そういう騒ぎそのものに興味はある。
へたすりゃニュース番組で皇族以外使われることのない敬語が飛び出すんじゃないかと思うような崇拝ぶりだ。その気持ちはわからぬではない。ところで高校時代に自分は長嶋教という宗教があるかのようだ、というコラムを書いたことがあったが、この騒ぎを見ればそれは間違いでもないのだろう。
日本には国教と言えるような宗教が、少なくとも今は、ない。
その分、有名人やメディアに対する崇拝度が増しているのではないか、というのが海外のメディア事情も知らない自分の根拠なき言い分なのだ。だからこそ日本では広告において「タレント広告」と言われる、ほとんど、タレントが出ていますという他に何も内容がないようなCMが多いのだ、とずっと考えていた(日本のCMが短すぎてそれ以外作りようがないという事情はもちろんあるのだけど)。
で、そういった事情が日本と東アジアで特に盛り上がりを見せるアイドルという現象についても多少なりとも絡んでいるんじゃないのか。とはいえ、そうした、メディアが作り上げるアイドルというものを離れて、いまやオタク自身がアイドルを作り出す時代になってしまいつつあるわけで、マスメディアの権威はどこへやらである。確かに、なんらかの意味でそれは人間の最先端の姿のような気もするのだが、それの行き着く先は、知覚の操作によって快楽を常に感じていられるような装置に身を任せる「マトリックス」的な世界かもしれない。で、それが幸か不幸かは全く判断できない。
にもかかわらず、僕はそれがなんか嫌なのだ。「なんか嫌」という以上の理由を以って拒絶したいのだが、どうもうまくいかない。なぜだか知らないが、僕は人間が自分自身から神を創り出してはいけないと思う。「人間のおごり」だとかいう言葉を使うようなことはしたくないのだが、うむ、なにか、人間の未知の部分は常に残していかなくちゃいけないんじゃないか、と思うのだ。それは根拠がないかもしれないけど、自分に深く根ざす倫理だ。
だから、メディアが権威を持つことはそんなに悪いことではないと思う。もう我々はそれに対する十分な疑念は持ち合わせているだろうから、その上で多少の権威は認めてあげる、というわけだ。そこにおいてアイドルも最低限の権威を保っていてほしい、というのが自分の願いだ。
そう、アイドルに権威を!!ここ数年の「DD化」の中で自分が言いたいのはそれだ。


あれ、矢口のディナーショー申し込み忘れた。
自分にとってのアイドルの権威どこへやら?か。…まずいかも。