音源

例の音源を聞いてみました。
石川吉澤のプロ意識だとか、矢口藤本はダメだとか、まあそういうことを言う人は多いんだろう。そりゃそうだろう。
ただ、舞台袖で話をしていたらワッチされることはすでに分かっているんだから、そこで軽率に話をしてしまうことは認識が甘いんじゃないのか、と責めることだって本当はできるのだ。
まあしかしこの件で矢口藤本が責められるのは自然な流れだ。自分としては石川吉澤が結構真面目なんでけなげだなあと思ったくらいだが。矢口に関しては、いままでで分かってたんじゃないのかと言いたいがねえ。脱退して、復帰嘆願も収まって、ここぞというタイミングで叩きにかかっているというのがなんともこずるい気がするんだよな。
そう、とりあえず気になることは、なぜこの時期に、ということなのだ。
あまりにも時期的に都合がよすぎるよな。
矢口が抜け、石川が卒業したこのタイミングに、去年のミューの音源がなぜ出てくる。
明らかにそこに流した者の意図があることには注意したい。
問題だと思うのは、音源を流した者の政治的意図にあまりに無自覚にヲタがそれを消費してしまうことだ。祭になるような音源しかあげられていないんだから、これ以外に膨大に録音されたものがあるのは確実だ。もしかしたら石川に都合の悪い音源だってあるかもしれないのだ。現段階で石川=正義、矢口=悪というような構図が当てはめられる音源があるから、それゆえ石川はいい娘で矢口は悪い娘である、という論調になるのはどうも単純すぎる(とは言え矢口を擁護するのはなかなか難しいが)。
その音源があたかも偶然録られたかのように、つまり娘。の「裏」の姿が偶然垣間見えてしまったかのように語るのはもうやめたほうがいいんじゃないのか。「もう」じゃないな。初めっからそういう語り方なんておかしいんじゃないのか。モーニング娘。は、初めから「裏」さえも商品化したグループだったじゃないか。ASAYANがそういうつくりで娘。人気を生み出したんだ。
ワッチが事務所にも知られている以上、今回の音源が事務所の自作自演だったり、さらには石川や吉澤が仕掛けるということだって可能性としてはありうるのだから、ただ手放しで祭に参加してしまうヲタというのは思慮が足りないんではなかろうか。
「ASAYAN」では、我々ヲタは、ある程度能動的な読み込みという行為を必要としていた気もするのだが、ワッチ音源って与えられたものをただ消費するしかないような。情報というものの表層を眺めるだけでは、その情報を流す者に操作される恐れがあるということに気づかないんだろうか。最近の祭にはそういう危険性をずっと感じているのだ。もともと情報を流す者の意図に対して非常に敏感で、それには従うまいとするのがオタクの特性(80年代、オタク発生時の特性――娘。ヲタで言えば初期ヲタ≒「マジヲタ」と私は呼ぶ)であったはずだが、最近そうしたオタクの特性が失われつつある(=「DD化」と私が呼んでいる現象)のはやはり問題だと思う。


アイドルは総合芸術である、と確か稲増龍夫は書いたが、総合というのは、本当に全てにおいて、である。ワッチされたらその音源も、盗撮されたらその写真も、すべての現象がアイドルを作る。「裏」を見たいと思うヲタは多いが、「裏」はいつの間にか表に返っている。現代のアイドルが、現実も虚構も入り混じったところに存在していると考えなければ、偏狭な人間になってしまうのでは?ワッチ音源だって、ネタとして消費する分にはいいが、それに対してあまりに真剣な反応をするのはどうかと思うのだ。
ともかく、今回やぐや藤本を叩くヲタは多い。それは理由のあることであって自然だとも思うのだが、しょせんそれはヲタの世界内の階級闘争に過ぎないということにはせめて自覚的であってくれ。ヲタじゃない人にとっては、それはどうでもいいことなんだ。我々がヲタであるからこそ、そこに執着する。愛であれ憎しみであれ、そこに執着するのは我々がヲタだからだ。我々がヲタである、という事実は厳然としてある。それがいいとか悪いとかは、知らない。