雑誌『装苑』4月号「アイドルとファンをつなぐ色」

装苑 2017年 4月号 (雑誌)

装苑 2017年 4月号 (雑誌)

先月末に発売された雑誌『装苑』にコラムを載せています。今日のイベントの出演者についても、掲載しているグループもいるので、いろいろと書いておきたいと思います。このコラムの要旨は、色はアイドル現場におけるファンとアイドルをつなぐコミュニケーションツールなのだ、ということでした。
今回のイベントでも、まねきケチャdrop神宿、わーすたが衣装を色分けしていましたね。これは見分けがつきやすいようにということでもあり、キャラ付けの意味もあり、ファンの方でも誰のファンかをキンブレなどによってアピールできるという意味があるわけです。
まねきケチャdropは属性に合わせたメンバーカラーが設定されています。神宿はおそらく動物に合わせた色設定ですが、イメージキャラクターが象のメンバーの色が青なのは、そうしないとキンブレやらグッズ展開にも支障があるせいでしょう。一方で、青の動物ってなんだと言われると適切なものがなかなか出てきませんし。
キンブレはいまやアイドル現場に欠かせないツールになっていますが、大阪☆春夏秋冬の時には誰も使ってなかったのが印象的でした。繰り返しになりますが、ステージ上の演者によって、また音楽・パフォーマンスによって、ファンの応援文化(使用ツール)が如実に影響を受ける、というのは現場で見ていてとても興味深いものでした。

3/18 TSUTAYA O-EAST「OTODAMA×POP PARADE」

わーすたが見たくて行ってきました。
ほとんど情報を仕入れず、14組出ることも、長丁場のイベントであることも知らないまま。
オールスタンディングで6時間超えのイベントは見る方も大変で、途中離脱しつつ、わーすた終わりで抜けてきてしまいました。
ほとんどが初見のグループなので、予備知識ない状態で、思うところを。


まねきケチャ
闇属性の中川さんが、とても空虚な感じがしていい。意志なく機械仕掛けで動いているように見える。あるいは、日本人形の闇を感じたりもする。


Party Rockets GT
HIMEKAさんをほぼずっと見ていました。
前も書いたことですが、決まった振付をアイドルが踊る時、決まったものをなぞるという意味では不自由なはずなのですが、自らのうちにうまく消化して、主体的に、楽しそうに踊る時、とても自由なのですね。


LADYBABY
今調べていて、いまさら黒宮れいのユニットと知る。なんという情弱!
新曲は「Pelo」というらしいんですが、ペロって、あらためてエロい言葉ですね。


drop
表情もまた、振付のひとつと知る。
なるほど無表情から笑顔への転換とか、メリハリがつくととても面白い。


●つりビット
あれ、こんなに大人びた感じだったっけ、と。
「釣りたい魚」と「蹴りたい背中」って似てるな。どうでもいい。


●大阪☆春夏秋冬
圧倒的に強く、支配力があるグループで、トップダウン型、と言いたくなる。
公式にも一応アイドルとされているようだが、その音楽、そしてそれに呼応するファンの応援方法はアイドルファン文化とは異なる。手の上げ方ひとつとっても違う。
面白いもので、ステージのパフォーマンスによって、ファンの振る舞いも全く変わってくる。そういう流動性みたいなものに、自分は興味がある。


PassCode
これまた全く異なる応援を呼び込むグループ。
リフト、モッシュクラウドサーフ、と言うんでしょうか、会場後方から見ると、泥の海からゾンビが現れては消えるといった感じで、激しい音楽に合わせてドロドロしたものがぼこぼこ湧き出していました。そしてサイリウムやら水やら靴やらが空を舞っていました。
これ、止めないんだ、と思いながら見てました。この前のどれかのグループの時にリフトを係員が制する光景があったのですが、このグループの場合はOKなのか?グループによってルールを変えて運営をしているイベントなのか?謎です。いや別に、これはこれで同意のもとなら、いいんでしょう。


神宿
PassCodeの後で、どうなるかと思ったら、ちゃんと「神宿の応援」になるんですね。本当に面白い。ちゃんと演者に対応するふさわしい応援になるわけです。


●わーすた
わーすたは、曲が、特に歌詞が好きなのです。
みんなで倒すのが、トリケラトップスでよかった。
みんなで何かを倒す、その相手が、ほとんど意味をなさないトリケラトップスでよかった。ファンもわーすたメンバーもみんなが団結して倒す、その団結だけがほしい。正直、倒す敵はどうでもいいから、一体感だけがほしい。だから、トリケラトップスを倒すのが、ちょうどいい。
「犬派ですか?猫派ですか?」、「アイスクリーム それかシュークリーム?」、…どうでもいい。どうでもいいことを歌ってくれて、救われる。そういうことがある。
うるとら みらくるくる ふぁいなる アルティメット サンダー すぺしゃる すーぱー…あれ、なんだっけ。
小学生の時に考えた必殺技、どうでもいい大げさな名前をつけて、よくわからない敵を倒したよ。それが、楽しかった。



あらためて、ダンスする、踊る、体を動かすという意味を考える。アイドルイベントはふつう生演奏をしない。その代わり、演者が踊る。最近は、歌を歌うことよりも、ダンスをすることの方がアイドルにとって重要ではないかと思っている。なぜなら、ファンが呼応しやすいのは、歌よりもダンスの方だからだ。「恋ダンス」でも「PPAP」でも、「反復しやすいパターン」が重要である。それは歌詞でもいいが、体の動きの方が、より重要であるという気がしている(根拠はない印象論である)。
振りマネをする、つまりアイドルの動きと同じ動きをする、ということもあるし、ある一定のリズムに対して独自の応援文化が起こることもある。そういう対応関係を見るのが、面白いのである。

歌詞における「前髪」について

先日のハロプロライブで聞いたこぶしファクトリーの曲で、「前髪が決まんなくて」という歌詞があって、そういえばハロプロの歌詞世界で前髪って全然決まってないなあ、というイメージがあったので、実際に調べてみることにした。
結論から言うと、別に前髪がそんなに決まってないわけでもない。ただそこから歌詞における前髪とは何かということを考えたので、ちょいと記録として残しておきます。
以下は、ハロプロの楽曲の中で歌詞に「前髪」が出てくる主な曲である。前髪がどういう意味で登場するのか、いまひとつわからなかった曲は省いております。なお、並び順は歌ネット(http://www.uta-net.com/)の検索で登場した順なので、特に年代順になっておりません。(あと、歌詞の改行は気にしてません。)


前髪が決まんなくて 悪戦苦闘 正解探求の 努力が実を結ぶのさ
「GO TO THE TOP!!」(こぶしファクトリー


前髪後ろ髪引かれまくる 片道切符
「次々続々」(アンジュルム


目を見られると心まで 見られるようで 知らない間に前髪がね 長くなっていった
冷たい風と片思い」(モーニング娘。'15)


切りすぎた前髪 ほつれたワンピース 欠けた爪 断線してるイヤホン
「汗かいてカルナバル」(アンジュルム


前髪少し切ったのよ? “彼氏”なら みんな 気づいてくれるんだよ?
「わかっているのにごめんね」(カントリー・ガールズ


前髪の隙間からね 見つめてる未来
「未来へ、さあ走り出せ!」(Juice=Juice)


鏡の前ってなんだか不思議で 勇気の出る日 そうじゃない日 いろいろね それでも100%自信がないのは 前髪のニュアンスだけで なんとかするわ
「Rockの定義」(田中れいな(モーニング娘。))


前髪を失敗した時 ほんのちょこっと 笑ったでしょう その後すぐ 「似合う」とか言ってフォローする…かわいいやつ
「まっすぐな私」(Berryz工房


前髪そろいすぎ! エッ?
「乙女の心理学」(モーニング娘。


前髪を切ったら 似合うと言われたり
I have a dream」(真野恵里菜


冗談を言い合って 二人じゃれあって たまにケンカもしたりするけど 何気ない事が大切なんだね 前髪切りすぎたり 優柔不断だったり
「こんな私でよかったら」(吉川友


前髪もパッツリだぞ とっぽいショートカット
「ショートカット」(アンジュルム


前髪乱れても それでもまあいいよね 私に変わりはない
青春コレクション」(モーニング娘。


今日はいつもより 早く起きて カール巻いてみた ちょっと効き過ぎて 前髪とか なんか変ね
「通学列車」(モーニング娘。


短く 切った髪を あなたは 笑ったけど 今でも この前髪 そのまま
「月色の光」(安倍なつみ


前髪はどん位 切っていいの?
「なんちゅう恋をやってるぅ YOU KNOW?」(Berryz工房


伸び始めてきた前髪を 少し自分で切った 気がついてくれたのはきっと あなただけでした
紫陽花アイ愛物語」(美勇伝


加護亜依ぼん」 前髪が決まらないだけで 分かりやすいほど 凹む
女子かしまし物語」(モーニング娘。


こうして見てくると、前髪にいくつかの役割を託していることが分かる。
1.自分で切ることができるということ(変化をつけられる)
2.環境条件(風とか)により変化すること
3.顔の一部であること(見られること)
4.視界を遮るものであること

大方上記の4つについて留意しておけばよいのではないかと。
私が最も想定していたのは、「思春期の女の子が前髪を切り過ぎる」という、「ささいでありながら本人としては切実な、日常的な失敗」のモチーフとして登場しやすいのでは、というものでしたが、それ以外にもいろいろなパターンがありますね。
「前髪」というモチーフが優れているのは、髪は勝手に伸びるものなので(身体の中で最も変化が大きい)、切る必要があるのだが、前髪は顔の一部であって誰もに見える身体的パーツであり、オシャレの表現にもなるし、心理表現(決断・切り替え)にもなる、そして視界を左右するという意味で象徴的なものとしても機能するということですね。どんな役割で使われているか(あるいは使われうるか)列記してみます。


・風などの外部環境要因により前髪が乱れる(不運のモチーフ)
・逆にうまく決まったという幸運のモチーフ
・前髪が失敗したこと(うまくいったこと)による、恋人等とのコミュニケーション(ささいな日常の尊さのモチーフ)
・前髪を切るべきかどうかというささいな、日常的な悩み
・見られたくないので前髪を伸ばす/前髪を切ったことに気付いてほしい
・視界をクリアにする(前向きになるという象徴的意味合いでも使用可)ために、前髪を切る/手でかき上げるなど
・決意・覚悟の表現としての前髪カット


ということで、調べてみたら、前髪というのは歌詞表現の中でかなり使い勝手のよいものだと気づいた、というお話でした。

Hello! Project 2017 WINTER 〜Crystal Clear〜

1月8日(日)朝公演を観てまいりました。久々のハロ紺。
思うところをつらつらと、セットリストの流れに従って。


2.初恋サンライズつばきファクトリー
組まれて間もないグループは、基本的に「背伸びした恋愛」を歌う傾向にある。
多くのグループがそこから始まって、グループが成熟するにつれて(ファンの数が増えるにつれて・ファンの年齢が徐々に上がるにつれて)だんだんに「恋」でなくて「愛」を歌うようになったり、具体的ではなく抽象的なことを歌うようになったりする。これはハロプロに限らず、たとえばジャニーズにおいてもまずまず成り立ちそうなことである。
そんなことを思っていたのだけど、この思いはその後のセトリで崩された。


3.Oh my wish!モーニング娘。'17
小田さくらが終盤までずっと後ろに位置取っていた。それによって迫力がより増していた。


4.女の園ハロプロ研修生
この歌詞も割と背伸び感がある。
というか、あれだ、年少のメンバーの方が歌詞世界では「女性性」が強く打ち出されがちというのは面白い。しばしば思うことだが、加入したてのメンバーの方が大人びている感じがして、加入した後の方がだんだん幼い見た目になっていくの、面白いですね。


5.カクゴして/アンジュルム
歌詞が自己啓発的。というか、この後もしばしば自己啓発的な歌詞が登場する。
これはこれでハロプロのいまの持ち味である。


6.どーだっていいの/カントリー・ガールズ
嗣永桃子を生で見るのはこれが最後かもしれない。
ここ5年くらいはずっと、アイドルのセカンドキャリア問題に興味を持ち続けていたが、嗣永のようにコーチ兼選手のような立場を経験するのは、後の仕事のためにもよいことだろうと思う。

この動画においても嗣永の能力が際立っているし、他のメンバーもうまく教育されているところが見える。
動画後半で嗣永が問いかける質問に対して、メンバーの答え方のパターンがどうであろうとも、面白い方向に展開することができる。そして、その意図をメンバーもその場で読みつつ、反応できる。そのあたりの探り合いの様子がとても面白い動画である。
「デザイン」ということを考える。嗣永は、デザインをする。いい素材(メンバー)を生かして、どのように面白く仕上げるか。コーチとか、管理職というのは、そういう、デザインをする能力が求められている。
アイドル全般の話にしても、アイドルの人気と継続は、どうデザインするかにかかっていると言える。アイドルの運営に関わる人たちは、そこを見誤ってはいけない。


7.生まれたてのBaby Love/Juice=Juice
金澤さんの声の良さは圧倒的。メンバーを声で好きになることがよくある。
ところで、なんだか、この曲の最中に泣けてきそうになったのだが、そこには「アイドルが幸せであってほしい」という思いがあった。なぜこのタイミングだったのか、よくわからない。「アイドルが幸せである世界であってほしい」というような思い。


8.GO TO THE TOP!!/こぶしファクトリー
ハロプロの曲って前髪が決まらないイメージがあるのだが、その件は別途記事を書きます。


10.忘れてあげる/アンジュルム
和田さんの髪をかき上げる仕草は、エロいというよりは、強さを表していた。惚れる。
室田さんは自分の中では黄色。シトラスの香気を放っている。


11.うるわしのカメリア/つばきファクトリー
旧仮名遣いの歌詞、こういうのを出しちゃうのが、マーケティングしてない感じでいいのですよねえ。
全然わかりやすくない。こういう幅、多様性を持つことがとても大事、と思う。


13.ピーナッツバタージェリーラブ/カントリー・ガールズ
カントリー・ガールズは、70〜80年代のカタカナ。という点ではレトロなパフェも似合いそうな。


15.Bye Bye Bye!/全員
ここまで歌詞の世界によってユニットごとの個性が出ていることを見てきただけに、この歌詞の凡庸さが際立った。正直この歌において歌詞は添え物でいいんだろうと思う。
そういえば、全然調べないで来たので、℃-uteが出演しないことを知らなかった。


16.ギャグ100回分愛してください/嗣永ほか
この曲は言語の身体性、音そのものの響きを楽しむ曲で、「のにゅ」はとてもよい。


17.Just Try!/つばきファクトリー
この曲だったか、歌詞の中に「人間とは如何なるものか」というのが出てくる。
こういうのを、かわいい女の子が言うからいいのですが、これに少しでも政治色や宗教色が入ってくるとまた難しくなってくる。そういう意味でも、歌詞は徹底的に具体的か、逆に抽象的か、であった方がよいと思える。


振り返ると、以下の3点が心に残る。
1.自己啓発的な歌詞に、割と本気で感化されそう。
2.アイドルも、どうデザインするかという視点がとても重要。
3.アイドルの歌詞が作り出す世界に興味がある。


いやもちろん、アイドルのライブとしてとっても面白かったです。
中でもアンジュルム、いい。

映画『堕ちる』感想

12/17(土)LOFT9での上映会に行ってまいりました。
映画『堕ちる』、なかなか上映される機会がなかったのですが、今回タイミングが合い、上映会に足を運ぶことができました。とても面白い映画でしたので、ちょっと感想を、と思ったらだいぶ長くなりました。

ここからネタバレを含みます。
あらすじとしては、織物職人が地元のアイドルにハマる、という内容で、映画の長さとしては30分程度の短編です。でもその短さを感じさせない濃密な時間で、惹き込まれつつ、時折挟まれるアイドルオタクの内輪ネタに爆笑しながら観させていただきました。

ここから細かい感想ですが、一度見たきりなので、記憶があいまいなところもあります。ご了承ください。(何かはっきりとした誤りがありましたら、ご指摘くださるとありがたいです。)

桐生の街の織物工場(「こうじょう」というよりは「まちこうば」といった感じ)で働く、技術はあるがうだつの上がらない中年の男。町の理髪店で、シャンプーをしてくれた店主の娘に惹かれていく。彼女は地元でソロのアイドル活動をしていたのだった。
この、「めめたん」というアイドルとの出会いのシーンで、主人公が惹かれる一番初めのきっかけ、「めめたん」のアイドル性の端的な表現が、「スカートのふわりとした動き」だった、というのは重要だと思います。アイドルにおいて、アイドルが「動く」ということはとても重要です。アイドルにおいてはダンスが重要であり、アイドルが一般的には歌手の一形態でありながら、アイドルは場合によっては「口パク」をしてでもダンスをするのです。
軽やかな動き、は生命力・若さの象徴です。アイドルの衣装にスカートが多いのは、もちろん脚を見せるとか、デザインとしてのかわいさもありますが、アイドルのダンスによってスカート自体が動く、ということも大きな要素であると思われます。

主人公の男は、逆に「動き」がない。しゃべらないし、仕事場でも快活に動くわけではない。そして何より、表情も変わらない。そんな男が、「女の子のスカートのふわり」に、少し心が揺らぐ。浮き立つ。この出会いのシーンの描写はとても重要でした。

理髪店の店主にもらったチケットで、男は初めて地下のライブハウスで行われている「めめたん」のライブに行くことになる。チケットをもらわなければ、行くことはなかっただろう。自ら動く、ということのない人生になっている。
ライブの描写が秀逸です。ライブハウスの店員の無愛想な様子。ドリンクチケットをもらって、戸惑う主人公。中に入りざま、「1曲目からお願いしまーす」と、常連のファンに何やら得体のしれない棒を渡される(サイリウム)。
そして、男は恋に落ちる。「恋に落ちたの 苦しいほどに あなたのこと 考えてばかり」というめめたんの歌詞とリンクするように。
ライブ後、常連のファンに促されて握手をする男。家に帰って、押し入れの中から使っていなかったCDラジカセを取り出して、めめたんのCDを聞く。そこからはもう、堕ちていく。

この映画は、アイドルファンにとっては刺さる映画です。アイドルに堕ちていく経験は、自分の中で強く記憶に残っていることだから。たとえば自分だったら、もう15年以上前、テレ東のモーニング娘。の深夜番組を見ていて、堕ちました。CDを買う。ポスターを貼る。コンサートに行く。これはやばい、堕ちていくという感覚と、空も飛べそうな浮遊感と。

映画『堕ちる』の「おちる」は、恋に落ちるとか、堕落するとか、いろいろな意味をかけているけれども、一方でその下へのベクトルは、アイドルというものの輝きが上へのベクトルであるということを逆に引き立てています。アイドルファンは、アイドルと接している以上、堕ちると同時に上がっています。アイドルが生命力の象徴であるように、アイドルライブでアイドルの曲に合わせて動くファンは、そこにおいてアイドルと同じ生命力を手にしています。ヲタTという非日常の衣装をまとって、救われています。

めめたん現場に足を運ぶようになった男は、いつしかヲタTを着て、ファンのオフ会にも参加するようになる。常連のファンに促され、説教されて、男はアイドルファンの身体を獲得していく。男の日常が変わっていく。(アイドルファンになることで、かえって理髪店にいる素の女の子には顔を合わせづらくなる、という描写はとてもよかったです。)
部屋にポスターを貼りまくる。めめたんツイッターを常時チェックする。歩きながらめめたんの曲を聞く。その足取りは軽くなっている。男の生活に、身体に、「動き」が生まれる。そして、表情もやわらいでいく。

男はめめたんのために何かできないかと考える。そして、めめたんの衣装を自分で作ろうと思い立つ。自分が持っている職人としての技術を使って、アイドルのために衣装を作る。ここにおいて、日常と非日常が接続される可能性が生まれてきています。普通、アイドルに堕ちる現象というのは、非日常であるアイドルが日常を侵食しすぎて、その生活が継続困難になるというものです。金と時間をアイドルに費やし過ぎて、にっちもさっちもいかなくなる、というファンが、多分かなりの数、実際にいます。
ただ、男は仕事で培った技術(日常)を、アイドルの世界(非日常)に生かそうとする。ここには可能性があると感じたし、この段階で、頼むからこの映画、ハッピーエンドで終わってくれよ、と思っていました。この映画の普遍的なメッセージとして受け取りたいのは、自分が心の底からしたいと思ったことが、すごいものを生み出していく原動力になる、ということです。なんとしてもめめたんの衣装を作りたい、と思ったことが、この男を輝かせる。とは言え、仕事での技術を使いながらも、仕事そっちのけでアイドルの衣装づくりをしているのだから、やっぱり男は、堕ちていっている。

めめたんに衣装のプレゼント。それは成功した。
けれども、男は手にケガをしてしまう。ケガをしたのは、ライブ中にペンライトを落として、床をはいつくばって探しているときに、曲に合わせてジャンプしたファンに手を強く踏まれてしまったから。これが男の、完全に堕落するきっかけとなってしまう。ここはとても象徴的な場面でした。
男がケガをする(堕落する)のは、アイドルファンがジャンプしたからです。アイドルファンは、アイドルの動きに合わせるようにジャンプする。でも、アイドルファンは空を飛べないから、空を飛べそうなアイドルの世界にあこがれてジャンプをしても、その後すぐに落ちてしまうのです。男もまた、アイドルの世界にあこがれて、飛ぼうとしたが、束の間の浮遊感の後、堕落してしまう。だから、男のケガの理由がアイドルファンのジャンプだったというのは、必然的なのです。

男は、職を失う。めめたんは、東京でデビューすることになり、桐生を離れることになる。
理髪店の店主から、男がめめたんに送った衣装が、返されてしまう。

衣装は返されたくなかったが、男にとってアイドル(的世界)との接点は、もうその衣装しかなかった。
だから、男はその衣装をまとって、街を徘徊する。その気持ちは、痛いほどわかります。もういないめめたんに思いを馳せながら、そのめめたんの名残・痕跡であるところの衣装を着るしかない男。もう、めめたんはいない。自分にはもう、何もない。
男は、働いていた町工場で、めめたんの衣装を着たままで、首つり自殺を試みる。だが、首にかけた布が切れて、男は床に落ちる。自殺は失敗する。男は嗚咽し、「めめたぁぁぁん……」と悲しげに叫ぶ(主人公のこの映画唯一のセリフです)。みじめで滑稽である、が、観客としては「ああ、助かった」という安堵感があり、この滑稽さは笑いを生みました。

そこに出くわした工場の経営者。男の行動に驚きつつも、着ている衣装の出来栄えに目を奪われる。これは、いける。

映画のラスト、めめたんではない別のアイドル現場。2人の男がライブの様子を遠巻きに見ている。主人公の男は随分スカした格好をして、音楽に体を揺らせている。アイドルの美しい衣装を売りにして、2人はどうやらアイドルの運営側になってしまったようだ。

最後、大きな字幕で「OCHIRU」と出る。「おちる」にはいろいろな意味がかけられている、という表現であるのとともに、既存の「おちる」に新たな意味を付与したいという思いも感じる字幕である。

「おちる」という言葉について考える。
落ちるためには、まずは浮かばなくてはならない。浮かんでいるものがなければならない。
この映画、思い返せばその、落ちる(下へのベクトル)と浮かぶ(上へのベクトル)がよく考えられた映画だと思った。
男の恋のきっかけは、スカートのふわりとした浮遊感だった。それに少しだけ浮き立った男の心が、完全に恋に落ちるのは地下の空間だった、というのも面白い。
そして、「恋に落ちる」は、落ちると言っておきながら、その後はふわふわした浮遊感・高揚感を伴って、昇っていく感じがする。
アイドルは少しだけファンよりも高いところにいて、ファンを煽ってジャンプさせる。アイドルの世界に救われたかったら、少し背伸びをして、またジャンプをして、アイドルに合わせる必要がある。けれども、ジャンプをしたら、その後、落ちる。
アイドルの世界にすがっていたら、いずれ、堕ちる?
堕落した男が自殺を図って、失敗する。天に召されることなく、床にたたきつけられる。最低にみじめな瞬間である。が、ここでは落ちることが、生き残ることを意味している。底の底まで落ちきったら、あとは浮かぶばかりである。男はアイドル運営側となることで救われるのだ。

しかし、これは、ハッピーエンドなんだろうか?
主人公の男のスカした感じ、絶対これ、何かまた落とし穴が待っているんじゃないだろうか。
そういった余韻まで残す、いい映画だと思います。アイドルとそのファンの世界に対して極力価値判断を持ち込まず、一方でアイドルファン文化についての理解はした上で、アイドルファンにも、またアイドルファンでない方にも刺さるメッセージが込められた映画だと思います。

アイドルファンの活動は、感情の絶対値が大きいのです。アイドルファンが長い人ほど、空も飛べそうな気分と、地獄に叩き落されたような気分を知っているでしょう。浮かべばいずれ堕ちるし、落ちてもいずれ救われる。
人生って、そんなものですよね(とってつけたように)。

「パンチラ2015」に行ってきた

「パンチラ2015」という写真展に行ってまいりました。
http://pt2015.lewo.jp/in/
場所は浅草橋歩いてすぐの、Photons Art Gallery。
会期は2月15日まで。
さて、感想を。



まず、「パンチラ」を展示するということにおいて、直観的な反発のようなものを感じないわけでもない。
というか、もしパンチラ評論家なる者がいたら、大いに異議を申し立てるかもしれない。
「パンチラ」は、展示するものではない。「パンチラ」は、前もって用意されるものではない。
「パンチラ」は、偶発的な出会いにこそ、その本質があると。
別に自分がそう思っているということではないよー。
そういう可能性があるという、そう、可能性の話だよー。
そんなことを考えながら、会場に向かう。



取り立てて自ら探し求めなくても、
人は人生の中で何度かは確実に、「パンチラ」と出会っているのではないかと思う。
自分の最も最古のパンチラの記憶は、
小学4年頃に、体育の時間に同じクラスの女子生徒のブルマから少しパンツがはみ出していた件である。
しかしそれは取り立てて甘美な思い出でもなくて、何かとても気まずいものだった。
その後、駅のホーム、高校の教室、あるいは自転車の女子高生、という感じで、いくつかの記憶がある。
おそらく自分の人生におけるパンチラ遭遇回数はせいぜい5〜10回というところであろう。
それは不思議なことに、それによってひどく興奮するとかいう類の単純なものではなくて(なにしろ「パンチラ」というくらいなのだから、一瞬の出来事でしかない)、
後ろめたさのような気持ちと、普段見られないものが見えたという強い印象(これを「よい経験」と言ってよいかも判然としない)が残って、つまりとにかく記憶にはよく残るのである(映像が鮮明に残るというのでなく、遭遇したという事実の記憶が強く残る)。



それはさておき、展示を眺めていくと、いろいろなパンチラがあるということに気付く。
まずはじめに、当たり前のことを思い知るのだが、
パンチラは、圧倒的に後ろ向きであることが多い、ということである。
これはとても重要なことで、スタンダードなパンチラは、
「パンツを履いている当人は気付いていない」ということがあって、
それを見つけた他者との間に、非対称な関係が生まれている、という事態がある。
スカートがめくれる原因としては(そもそもパンチラはほとんどの場合スカートあってのパンチラである)、
風でめくれる、バッグなどがひっかかってめくれ上がっている、誰か他人がめくっている、
というのがあり、
めくれていなくても、階段の下からなど角度的に見えてしまうとか、座った姿勢により見えてしまうといったパターンもある。
いずれにしても、多くの場合、パンチラは、
ある主体が履いているパンツが、その主体のあずかり知らない形でチラッと見えており、その光景を他者が享受している、という構図になる。
だから、昔ながらのパンチラ評論家は、「いやその展示物は、主体が了解した上でのパンチラなんだから、「本当のパンチラ」ではないし、そもそも展示物は常に面前に晒されているのだから、その段階でパンチラじゃないじゃないか!」と怒り出すのである。(例えばの話だ。)



ところで、「パンチラ」の成立条件とは何かということで言えば、
個人的には、女性・スカート(的なもの)・パンツの三つであると考える。
なぜかというと、展示物の中の男性コスプレイヤーのパンチラ写真を見て、「これはパンチラではない」と言う心の声があったためだ。
そして、ジーパンがずり落ちてパンツが見える、的なものもどうも違和感がある。



話を戻して、「主体が了解しているかどうか問題」というのは、実はアイドルの世界でもよく言われる話で、
「アイドルは操り人形」のように言われる際には、アイドルには自由はなく、受動的な存在に思われるが、
特に現代のアイドルは、自らのイメージを巧みに操ってみせる、セルフプロデュース能力に長けたアイドルが人気を博している。
その点を考えるならば、パンチラだってセルフプロデュースしていいじゃないか、ということにもなる。



これは、超越性をどこに求めるかという問題でもあって、宗教観の問題ですらある。
一つの立場は、「パンチラは人為的に創られるものではなく、偶然的に、人の手によらずに生まれる奇跡であって、そこに神聖性がある」というものであり、
もう一つは、「よりよきパンチラを、人間の発想と技術によって生み出す。その結果生まれた芸術的な美に神聖性を認める」というものである。
前者を「トップダウン型パンチラ」、後者を「ボトムアップ型パンチラ」と名付けよう(たしかこれ、前にパフェでも同じこと言いましたよ)。
ボトムアップ型パンチラ」には大きく2種類あって、パンチラを見る側が自らの創意工夫においてパンツを発見していくプロセス(たとえば階段の下から覗くとかそういうことである)か、パンツを履く側が自らパンツを見せていくプロセス(これは日常的にはほぼありえない)。「パンチラ2015」は、この両者(パンツを履く人と見る人)の共同作業として、パンチラ写真を提供する、ということになっている。



パンチラ写真は、写真としてでき上がった以上、その写真を見る側には自由はあまり残されていないかに見える。一方で、普通は瞬間的にしか出会えないパンチラをじっくり見る(それはもうパンチラではないかもしれないが)という貴重な体験ができるばかりか、パンチラを見ていることをパンツを履いている主体からはとがめられない(視線が返ってくる心配がない)という利点がある(パンチラのモデルさんが在廊している場合、事態はもう少しややこしいし、こちらを向いているパンチラ写真も多いのだが)。
我々が最も自由にパンチラを享受できるのは、1階のナマダ嬢の大きな写真で、腰につけられたスカート生地をめくれば、自らの力でパンチラを獲得できるようになっている。これはとても面白い。記念撮影の場所として、ずいぶんと盛り上がっていた。



で、パンチラってなんだろうなー。よく分かりません。
もしかしたら、「本来見えないはずのものが見えることにおけるロマン」と同時に、「別にパンツが見えたところで、取り立てて何かあるわけではない(たとえ見られても、決定的なマイナスではない)」ということが重要なんではないか、と考える。
性器的な生々しさのない、記号的な性としてパンツが機能している、という側面は否めない。その主体の性的な側面を表しはするが、その主体の身体そのものではないパンツ。服と生身の身体の中間形態として存在するパンツ。生身の身体ではないがゆえに、それをめぐって(文字通り)不毛なおふざけができてしまう。それを都合よく言えば文化の豊穣さということになる。
しかしそんなことよりもまあ、パンチラ写真を見たら、なんか、胸がつーんとしますよ。


パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)

パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)

▲全部読めてませんが、とても面白い本です。


「ぱんつ」大全

「ぱんつ」大全

▲6年前に買いました。

装苑12月号の告知

装苑 2014年 12月号 [雑誌]

装苑 2014年 12月号 [雑誌]


10月28日発売の、ファッション雑誌『装苑』12月号の1コーナー、
「衣装にみるアイドルクロニクル」に携わりました。


http://books.bunka.ac.jp/np/mag_next.do?maga_id=2


4ページでアイドルの昔から今までの衣装を振り返るという企画なのですが、
当然4ページで振り返りきれるはずもなく、
やむを得ずの代表的事例の紹介にとどまっております。
他いろいろな事情で紹介できないものもあり、
そこらへんは難しい部分もありましたが(おそらくいろいろ言いたくなる方もいらっしゃると思います)、
おおまかにアイドルの衣装の多様性は伝えられたかと思います。
スターボーとかピンクサターンは紹介しておりません。)
現代のところのアイドルグループのチョイスは、好きにやらせていただきました。


今回70年代〜80年代のアイドルをいろいろあらためて見返しましたが、
やはりすごく面白いですね。
その中でも、山口百恵とか松田聖子の圧倒的な存在感。


そして、いま何となくぼんやりと共有されているステレオタイプのアイドル像って、
一体何(誰)によってどのように創り上げられてきたのだろうか、という疑問はいまだ残ります。
なかなかこれは答えの出るものではないでしょうが。


何かご意見ありましたらコメントまたはメールいただけたらと思います。