Negicco「愛は光」

一週間くらい前にYouTubeにアップされたNegiccoの「愛は光」MV。
Twitterのタイムライン上で絶賛されていて、なんだか逆にいまひとつ気が乗らずに見ないまま(天邪鬼)、なぜか早起きしてしまったこんな朝にふと思い出して見てみる。ついでに、感想なども書いてしまおうかなどと。
もういろんな人が感想をつぶやいていて、同じことを言うのを承知でぐだぐだと書いてみます。(歌詞が間違ってたらすみません。)


アイドル側から、アイドルとファンの関係性を歌う時、しらじらしくわざとらしく、つまりは演劇的になってしまいがちに思われる。それがしかし、結成15年の(決して順調な道のりでここまでたどり着いたグループではない)Negiccoという存在によって、自然に、そして説得的になっているというのはもちろんある。


歌詞に登場する「サイリウム」「ペンライト」は、歌手とファンをつなぐ重要なツールである。
「まるで小さな銀河」であるライブ空間で、「サイリウム」は「ひしめき合う星の群れ」に見えて「すてき」。
「ダイヤモンドもガラスのビーズも光があるから輝くの」。
アイドルは、光を照らしてくれるファンがいるからこそ輝く、という強いメッセージである。(ここであえて「ダイヤモンド」と「ガラスのビーズ」という客観的価値に大きな差のある二者を持ち出すのが何とも秀逸な気がしている。)


ここで、「私が月なら 太陽はあなたよ」という歌詞が面白い。
ファンからすれば、自ら輝いているのはアイドルであって、アイドルが星(太陽)であるはずだ。
ところが、アイドルからすれば、ファンの方こそが光を照らしてくれる太陽である、というのだ。
これはファンにとってはうれしい(が、しかしファンにあまりに都合がよすぎるとも言える)。
この少し後に、「私だって太陽 あなたを照らしたい」という歌詞が来るのだが、この歌詞(「アイドル=太陽」)の方が「ファン=太陽」の歌詞より後ろに来るというのが面白いところ。


2点指摘しておきたいことがある。
①、アイドルがアイドルの自己言及的な歌詞の中で、アイドルとファンを入れ替え可能なもの(対等なもの)として歌うことは、やはり現代的という感じがする(現代的というのはここ10年くらいのことを指している)。
自己言及的な歌詞は、しばしばパロディや茶化す方向性を取りやすいが、ベタにアイドルとファンの対等な関係を描こうとする。それですべらないのは、Negiccoというグループの歴史のなせる業か。


②、ファンは「ひしめき合う星の群れ」でありながら、それぞれがただ一つの「太陽」でもある。これはアイドル論としてはとても重要なことで、アイドル対ファンは、「1対多」でありながら「1対1」でもある、という矛盾を超えた関係性にある。作詞者が意図したかはともかく、そうした関係性の表現として絶妙である。


ところで、「愛は光」ということについてだけれども、アイドルのライブにおいて、サイリウムの光はファンの愛の表現であって、その意味で「愛は光」となってアイドルのもとへ届く(もちろんこれはもっと普遍的な、与えられる愛は、その人にとっての光(希望)である、というようなメッセージでもある)。
今春に雑誌『装苑』のコラムでも書いた内容だが、ファンの愛が光へと抽象化することはとても大事だと思っている。愛が光という単純なものになってアイドルに届く。せいぜいそこで表せるのは「好き」というシンプルなメッセージであって、ファンそれぞれの、たとえば「恋人にしたい感じの好き」とか「結婚したい」とか「友達のように好き」とかいう差異をとっぱらって一つのものにしてしまう。だからこそ会場が一つになれる、みたいなところがライブにはある。
だから、アイドルにとってはファンは抽象化されていた方が(つまり個々というよりは集団として見えた方が)、ファンの愛を受け取りやすい、という側面もありそうである。遠くから見れば、「小さな銀河」や「ひしめき合う星の群れ」のようで「すてき」だが、果たしてファンのひとりひとりをアイドルは「太陽」として直視することができるのだろうか。…太陽と月というならば、距離が近すぎてもうまくいかないわけで(いやこれはだいぶ意地悪な見方だ)。


最後に、言葉遊び的なことですが。
サビのメロディーの同じ部分に「惜しむことなく」「燃え尽きるその時まで」という歌詞が配置されているのですが、「推し」とか「萌え」(萌えはもうアイドル界隈では死語かもしれませんが)とかのファン目線の用語が掛詞で用いられているのは偶然ではないと思っている。「授かった愛を輝きに変える」と歌う歌詞のそばに、そういったファンのまなざしがある。アイドルとファンの理想的な関係。


10年とか15年とかアイドルをやっていると、ファンの方も同じ歳を取って、生活環境も変わって、同じではいられない(いや別に同じ人もいるだろうけど)。「普通、アイドル10年やってらんない」のであって、そんな中で、アイドルを10年以上やって、ファンも10年以上支えている、それは素晴らしいことだと思う。
気付けば、℃-uteのラストも、嗣永桃子のラストも現場で見ることをしなかったから、自分のアイドルへの思い入れもだいぶ薄まってしまった。ただ、時にこういうMVを見てしまうと、アイドル、というか、愛にまつわる何かについて思いを馳せないわけにはいかない。
アイドルは「太陽」でもあり、「月」でもあるんだったら、「燃え尽き」なくてもいいんじゃないかな。人はアイドルじゃなくなっても、輝き続けられるということを希望にしたい。